前節において、半導体集積回路に関する「ムーアの法則」を取り上げ、近年では停滞しつつあることを指摘しました。また、カーツワイル氏の主張する「収穫加速の法則 = 拡張ムーアの法則」についても、実証的・論理的に、今後も必然的に継続されると信じる根拠は存在しないことを述べました。
実際のところ、コンピューティングにおいて今後、半導体集積回路からの「パラダイム・シフト」が発生するかしないかは不明ですし、計算力のコスト効率の指数関数的な向上が今後どれだけの期間続いていくかも不明であると言えます。けれども、計算能力の向上によって汎用人工知能を実現することができるのかについては、今のところ未解決の問題です。
もしも、計算力のみが人工知能の実現に対する制約であるのならば、既に並列コンピューティングという形で、人類は必要な計算力を手にすることができます。私たちが汎用的な人工知能を未だ実装できていないのは、結局のところ、汎用的な人工知能の作り方を知らないからです。計算能力が足りないことが直接の理由ではありません。と言うよりも、「十分な計算力さえ存在すれば汎用人工知能を作ることができるのか」という質問に対して解答できるほどの知識を、まだ人類は得ていないと言えます。
あくまでも可能性の問題としては、脳全体をシミュレーションせずとも汎用人工知能を実現できるかもしれませんし、また逆に、どれほど高機能な計算機を使っても、汎用的な知能の実現は不可能であると示される可能性も、どちらもありえます。
そこで、この節では「人工知能」の実現方法に関して検討します。
カーツワイル氏の将来予測の根拠
さて、汎用人工知能の実現可能性を検討するにあたって、カーツワイル氏の将来予測の根拠を改めて確認しておきましょう。彼は、2029年までには1台のPC (約1000ドルで購入可能なコンピュータ) で1人の人間の脳を模倣できる*1ようになり、2045年には全人類100億人の知能が1台のPCに収められると予想しています。
この予測の年自体は、メディアでもよく取り上げられるものですし、私も何度か言及していますが、この予測の根拠を改めて確認します。
カーツワイル氏が、人工知能に関する時期予測の基盤としている仮定は、次の2つです。
1. については、前節で既に取り上げました。
2. について、カーツワイル氏は、脳の機能の一部を模倣するために必要な計算能力から見積って、一秒間に10の14乗から15乗回の計算(CPS)ができるコンピュータが存在すれば、脳機能のリアルタイムなシミュレーションが可能であると推定しています。やや保守的な見積りを取り、カーツワイル氏は10の16乗CPSが脳機能の模倣のために十分な計算力であると主張しています*2。
また、人間の脳全体をエミュレーション、またはある人の人格を「アップロード」するために必要な計算力は、10の19乗CPSであると主張しています。
この根拠は、ニューロンのレベルでの処理を捉えるために必要な計算力です。この推定のロジックは、今後の議論において重要であるため、やや長く引用します。
その一方、ある特定の人の人格を「アップロード」しようとするのなら、個々のニューロンや細胞体、軸索や樹状突起やシナプスなどの、ニューロン各部のレベルでの神経のプロセスをシミュレートする必要がある。(中略)ニューロンひとつあたりの「ファンアウト」は10^3と推定されている。ニューロンの数が10^11として、約10^14の結合があることになる。リセット時間が五ミリ秒なので、シナプスの処理数は毎秒およそ10^16となる。
ニューロンをモデルとするシミュレーションから、樹状突起などニューロン各部における非線形性(複雑な相互作用)を捉えるためには、シナプスの処理一回あたり10^3の計算が必要であることが示され、人間の脳をこうしたレベルでシミュレートするには、およそ10^19cpsが必要だという全体的な推算に行き着いた。*3
この推定の妥当性には、現在は立ち入りません。けれども、2012年に完成した日本産スパコンの京によって、既に脳をシミュレーションするために必要とされる計算力の最も保守的な値(10^16乗cps)は達成されていることを指摘しておきます。おそらく、GoogleやAmazonなど、巨大インターネット企業が持つコンピューター能力の合計も、現在ではこの数値をはるかに超えていると思われます。
①1人の人間の脳の機能のシミュレーション |
1014~1016 |
②人間の脳のアップロード (=器質的シミュレーション) | 1019 |
③地球上の人間全員の脳 | 1026 |
よって、もしカーツワイル氏の推定が正しければ、脳のシミュレーションと汎用人工知能の実現に必要となるのは、計算機の規模を問題としないのであれば、あとはソフトウェアだけであると言えます。