シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

汎用人工知能に関するカーツワイル氏の将来予測

前節において、半導体集積回路に関する「ムーアの法則」を取り上げ、近年では停滞しつつあることを指摘しました。また、カーツワイル氏の主張する「収穫加速の法則 = 拡張ムーアの法則」についても、実証的・論理的に、今後も必然的に継続されると信じる根拠は存在しないことを述べました。

 

実際のところ、コンピューティングにおいて今後、半導体集積回路からの「パラダイム・シフト」が発生するかしないかは不明ですし、計算力のコスト効率の指数関数的な向上が今後どれだけの期間続いていくかも不明であると言えます。けれども、計算能力の向上によって汎用人工知能を実現することができるのかについては、今のところ未解決の問題です。

もしも、計算力のみが人工知能の実現に対する制約であるのならば、既に並列コンピューティングという形で、人類は必要な計算力を手にすることができます。私たちが汎用的な人工知能を未だ実装できていないのは、結局のところ、汎用的な人工知能の作り方を知らないからです。計算能力が足りないことが直接の理由ではありません。と言うよりも、「十分な計算力さえ存在すれば汎用人工知能を作ることができるのか」という質問に対して解答できるほどの知識を、まだ人類は得ていないと言えます。

あくまでも可能性の問題としては、脳全体をシミュレーションせずとも汎用人工知能を実現できるかもしれませんし、また逆に、どれほど高機能な計算機を使っても、汎用的な知能の実現は不可能であると示される可能性も、どちらもありえます。

そこで、この節では「人工知能」の実現方法に関して検討します。

カーツワイル氏の将来予測の根拠

さて、汎用人工知能の実現可能性を検討するにあたって、カーツワイル氏の将来予測の根拠を改めて確認しておきましょう。彼は、2029年までには1台のPC (約1000ドルで購入可能なコンピュータ) で1人の人間の脳を模倣できる*1ようになり、2045年には全人類100億人の知能が1台のPCに収められると予想しています。

この予測の年自体は、メディアでもよく取り上げられるものですし、私も何度か言及していますが、この予測の根拠を改めて確認します。

カーツワイル氏が、人工知能に関する時期予測の基盤としている仮定は、次の2つです。

  1. 「拡張ムーアの法則」による計算能力のコスト効率の指数関数的な成長が、今後も継続されること
  2. 大脳新皮質のリアルタイムシミュレーションまたはエミュレーションに必要な計算力の見積り

1. については、前節で既に取り上げました。
2. について、カーツワイル氏は、脳の機能の一部を模倣するために必要な計算能力から見積って、一秒間に10の14乗から15乗回の計算(CPS)ができるコンピュータが存在すれば、脳機能のリアルタイムなシミュレーションが可能であると推定しています。やや保守的な見積りを取り、カーツワイル氏は10の16乗CPSが脳機能の模倣のために十分な計算力であると主張しています*2

また、人間の脳全体をエミュレーション、またはある人の人格を「アップロード」するために必要な計算力は、10の19乗CPSであると主張しています。
この根拠は、ニューロンのレベルでの処理を捉えるために必要な計算力です。この推定のロジックは、今後の議論において重要であるため、やや長く引用します。

その一方、ある特定の人の人格を「アップロード」しようとするのなら、個々のニューロンや細胞体、軸索や樹状突起シナプスなどの、ニューロン各部のレベルでの神経のプロセスをシミュレートする必要がある。(中略)ニューロンひとつあたりの「ファンアウト」は10^3と推定されている。ニューロンの数が10^11として、約10^14の結合があることになる。リセット時間が五ミリ秒なので、シナプスの処理数は毎秒およそ10^16となる。
ニューロンをモデルとするシミュレーションから、樹状突起などニューロン各部における非線形性(複雑な相互作用)を捉えるためには、シナプスの処理一回あたり10^3の計算が必要であることが示され、人間の脳をこうしたレベルでシミュレートするには、およそ10^19cpsが必要だという全体的な推算に行き着いた。*3

この推定の妥当性には、現在は立ち入りません。けれども、2012年に完成した日本産スパコンの京によって、既に脳をシミュレーションするために必要とされる計算力の最も保守的な値(10^16乗cps)は達成されていることを指摘しておきます。おそらく、GoogleAmazonなど、巨大インターネット企業が持つコンピューター能力の合計も、現在ではこの数値をはるかに超えていると思われます。

①1人の人間のの機シミュレーション

1014~1016

②人間のアップロード (=器質的シミュレーション) 1019
地球上の人間全員の 1026


よって、もしカーツワイル氏の推定が正しければ、脳のシミュレーションと汎用人工知能の実現に必要となるのは、計算機の規模を問題としないのであれば、あとはソフトウェアだけであると言えます。 

関連項目

*1:ポスト・ヒューマン p.137

*2:ポスト・ヒューマン p.130-132

*3:ポスト・ヒューマン p.133-134

コンピュータ産業の未来

本論では、技術開発の将来性に対するネガティブな見通しばかり述べていますので、少しばかり前向きな話もしておきましょう。

 私は、おそらく2020年代初頭に半導体ロジックメーカー各社が微細化と集積化のペース (狭義のムーアの法則) の維持を断念し、公式に放棄を宣言することになると予測しています。そして、拡張ムーアの法則を維持するようなパラダイムが、その時期にちょうど出現すると信じる根拠は特にありません。

けれども、私はそれが半導体とコンピュータ産業の停滞と終焉を意味するものになるとは考えていません。

既に、微細化のプロセスルールの値が物理的・技術的に意味を持たない値となっていることを述べました。私たちは、あまりに長い時間半導体プロセスの微細化と集積化が進んでいくことに慣れてしまったため、それ以外の進歩のあり方を考えられなくなってしまっています。

 

単一の基準で、ある一つの目的へ邁進していくことを「進歩」と捉えるのであれば、確かにそれは停滞であると言えます。

けれども、私は進歩に対してやや異なる捉え方をしています。樹の枝がさまざまな方向へ広がるように、多様な可能性の存在と、多数の問題解決手法を実装する多様性、その実現こそが真の意味での進歩ではないでしょうか。

コンピュータアーキテクチャだけを取ってみても、現在さまざまな手法が学術・産業界の両方で研究、実現されています。

ヘテロジニアスプロセッサ、不揮発性メモリや大容量メモリを利用した新たなアーキテクチャ、三次元積層プロセッサ*1、特定用途向けのアクセラレータ (GPU、AI向けチップや量子コンピュータもここに含まれるでしょう) など、これ以外にも多数の事例を挙げられます。

思い出してほしいのですが、技術の研究から商品化までは10年〜15年程度の時間を必要とします。また、これらの技術は特有の利点と欠点を持っており、特定の状況下においては有効かもしれませんが、物理的限界に達しつつある半導体の計算能力の向上を更に継続させられるものではありません。技術開発は進めば進むほど困難になりますが、それでも新たなイノベーションの速度がゼロになることはありません。

 

けれども、おそらくそのイノベーションの形は、カーツワイル氏が主張しているような「人間の知能レベルの計算能力実現」に向かう一直線の階梯を指数関数的な速度で邁進するようなものではないはずです。

私の大学院時代の研究テーマがこの辺りだったので少し思い入れがあるのですが、現在、産業界の研究の関心は、低性能化・低消費電力化に向かっています。一般消費者向けのデバイスにおいては、一部の用途を除いて既に計算能力は制約ではなく、消費電力や排熱が大きな問題になっているからです。デバイスが低消費電力化されれば、さまざまな用途に対してセンサやプロセッサを使用することができるはずです。

そして、さまざまな方向へ向かって広がっていくテクノロジーの進歩が、現在の私たちには思いもよらないような異なる場所へと進んでいく。ちょうど、1960年代の人々が飛行機や宇宙開発の将来性を過大評価し、半導体技術や情報処理の将来性をあまりに過小評価していたように。

そう考えるのが、テクノロジーの進歩の実体をよく捉えているのではないかと思います。

*1:半導体の三次元積層技術は、既に活性度と排熱の少ないDRAMでは一般的に使われています

書評:『そろそろ、人工知能の真実を話そう』ジャン=ガブリエル・ガナシア


そろそろ、人工知能の真実を話そう

そろそろ、人工知能の真実を話そう

この本の著者であるガナシア氏は、パリ第6大学のコンピュータサイエンス学部で教授を務める哲学者であり、本書は、人工知能などの知性が人間を超越し、現在の人間には想像もできない超越的なテクノロジーの進歩をもたらすとするシンギュラリティ説と、その信奉者を批判するものです。

 

もはや私の自己紹介の必要は無いかもしれませんが、私はシンギュラリティ論には懐疑的な考え方を持っており、かつ、それが現在実践されているテクノロジーの研究開発に対して、現実的な悪影響を与えていると捉えている者です。
その意味では、私の立場は著者のガナシア氏と同一であると言え、基本的には私はガナシア氏の主張に賛成しています。けれども、私にとっては本書の議論は全く満足の行くものではありませんでした*1

私が考える本書の難点は3つあります。

  • シンギュラリティ論への反論としては、内容が薄い。
  • シンギュラリティとグノーシス主義の類似点を論じているが、信奉者が直接的にグノーシス主義から影響を受けたとは考えにくい。
  • 大企業がシンギュラリティ論を後援する動機を非難したところで、彼らの主張が誤っているとは言えない。

*1:だからこそ私のブログの存在価値がまだ保たれているという面もあるので複雑な感情を抱いているのですが…

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ムーアの法則の延命策

よくよく考えてみると、私たちはトランジスタを構成する半導体 (シリコン) という物質に対して、極めて都合の良い要求をしていると言えます。

以前にも述べた通り、トランジスタはスイッチです。つまり、電源オフの間は電気が溜められ、オンになると電気が流れるものです。

このオンとオフが、設計者の意図通りに切り替わってほしいのですが、この2つの動作ではそれぞれ真逆の性質が求められます。電源OFFの間はなるべく電流が流れにくく、ONになれば速やかに電流が流れる必要があります。つまり、この2つの状態ではそれぞれ抵抗の高い状態と低い状態という正反対の状態が必要であると言うことです。

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この2つの矛盾した性質を持たなければならないという宿命から、シリコン内の電子の移動速度は比較的遅いものとなっており、それが論理演算の速度を制限しています。そもそも、トランジスタ(transistor)という言葉自体が、transfer(転送)とresistor(抵抗)の合成語なのです。名前からして、トランジスタは矛盾を抱え込んだものであると言えます。

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ムーアの法則の次に来るもの「量子コンピュータ」

ムーアの法則の終了後、次に来たるべき「パラダイム」として、ここ数年、量子コンピュータが盛んに取り上げられています。特に、米Google社傘下のD-wave社が生産、販売している量子コンピュータの名前は、おそらくテック系のメディアをチェックしている人であれば一度は目にしたことがあるかと思います。

もちろん、量子コンピュータの将来性は大きな可能性があり、今後も研究開発が進んでいくことには私も疑いはありません。けれども、「拡張ムーアの法則」の延命というタイムスパンで検討したとき、その意義はやはりごく小さいだろうと考えています。

 

まず最初に、近年実用化が進んでいる量子コンピュータは、量子アニーリングマシンと呼ばれる特殊な量子コンピュータです。量子アニーリングマシンが高速に計算できる問題クラスは、組み合わせ最適化問題などごく限られたものであることは研究者の意見が一致しています*1

つまり、量子アニーリングマシンは特殊な問題を高速に解くことができるアクセラレータとでも呼ぶべきものです。真空管トランジスタ集積回路などのように、汎用的な計算を高速で実行できるデバイスではありません。
もちろん、組み合わせ最適化問題が産業的に大きな応用事例を持っていることは確かです。将来、現時点では思いもよらない方向の技術へ影響を与え、何かしら全く新しい技術が開発される可能性は否定しせん。けれども、実際問題として量子計算による高速化が与える影響は、間接的なものに留まります。量子アニーリングマシンは、「拡張ムーアの法則」のグラフ上において、即座にプロットされるような計算機にはなりえません。

そして、量子回路方式と呼ばれるチューリング万能性*2を持つ量子コンピュータも研究が進められています。けれども、2017年現在においては、まだ基礎研究の段階にあります。もちろん、量子回路方式についても数年以内に巨大なブレークスルーがあり、一気に汎用量子コンピュータが実用化される可能性は否定しません。けれども、拡張ムーアの法則を延命するタイムスパン、つまりここ2, 3年以内での量子コンピュータの実用化は、かなり可能性が低そうだと言えるのではないかと思います。

また、将来仮に量子回路コンピュータが実用化されたとして、それがプログラマブルなデジタルコンピュータである必然性はありません。そもそも、シンギュラリティ論に好意的な論者も認めている通り*3人工知能の実現 (人間の脳のシミュレーション/エミュレーション) には、力技の、真の意味で汎用的で膨大な並列計算能力が必要となります。量子コンピュータによって高速化が可能な計算クラスの中に、脳のシミュレーションは (おそらく) 含まれていません。

そして、量子コンピュータが汎用的ではないことは、カーツワイル氏自身も認めています。

 量子コンピュータが果たす究極的な役割はまだ見えていないだが、数百の絡み合った量子ビットからなる量子コンピュータが実現可能となったとしても、特別な目的だけに使われる装置であるのに変わりはないだろう。たとえ、他のやり方では決してまねのできない、すばらしい性能をもっていても。*4

 

私自身は、近い将来において汎用人工知能が開発される可能性は十分にあると予測しています。けれども、仮に汎用人工知能が実現されたとしても、それを計算しているデバイスはおそらく量子コンピュータではないだろうと考えています。

  

量子コンピュータが人工知能を加速する

量子コンピュータが人工知能を加速する

シンギュラリティ:人工知能から超知能へ

シンギュラリティ:人工知能から超知能へ

*1:量子アニーリング (西森秀稔)

*2:普通のコンピュータで計算できる問題が全て計算できるコンピュータと考えてください

*3:マレー・シャナハン(2016) 『シンギュラリティ』p.43

*4:『ポスト・ヒューマン誕生』p.128

未来は既に我々の手の中にある(はず)

最新テクノロジーに関するインターネットメディアの報道を見ていると、多数のテクノロジーの研究開発が進んでおり、明日にでも研究室という滑走路を離陸して、市場の大空へ飛び立って世間に普及するかのように喧伝されています。

けれども、実際に技術開発に関わっている研究者なりエンジニアたちは、やや異なる捉え方をしていることでしょう。新技術が発明・開発段階を経て市場投入され、古い「パラダイム」を追い越すまでには、非常に長い期間が必要となるからです。

 

下記の画像は、国際半導体技術ロードマップ (ITRS) の委員長であり、元インテル社幹部のパオロ・ガルジーニ氏が2015年に発表した資料*1から引用したものです。ここで挙げられている技術は、全て半導体トランジスタの製造プロセスで使用されている技術であり、最初に研究論文で提案されてから市場投入までに要した時間を表しています。

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挙げられた技術のうち、歪みシリコン (Strained Silicon) とHKMG (High-Kメタルゲート) は、実用化まで11年の期間を要しています。ソース/ドレイン電圧比の向上は16年、マルチゲートは14年の開発期間を経ています。平均すれば、研究から実用化までは12〜15年の期間が必要とされます。

 

実際のところ、研究で有用性が示された技術であっても、実用化・量産化までには多くの壁を乗り越えなければなりません。研究から製品開発、製品の生産プロセスを進めるためには長い時間を要します。そして、やっと発売され市場投入に辿りついた技術も、既存のテクノロジーを置き換えて真価を発揮するまでには、やはり時間を要します。

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これは、カーツワイル氏が提示している (拡張) ムーアの法則を示したグラフに、真空管トランジスタ集積回路の発明年を書き加えたものです。グラフ上で、あるパラダイムが始まるよりも10年以上前に、既に次の「パラダイム」の元になる技術が発明されていることが分かります。
つまり、あるパラダイムにおいて指数関数的な成長が続いている間に、次世代のパラダイムが発明されていなければ、(拡張) ムーアの法則は維持することができません。過去の事例から逆算して考えると、新技術の発明、製品開発、市場への普及には最低でも10年程度の期間を要します。

(狭義の)ムーアの法則の終焉が、6〜7年 (2ノード世代, 7/5nm) ないし2〜3年 (1ノード, 10nm) 以内に迫っていることを考慮すると、既に次の「パラダイム」の研究が完了しており、商品化されている必要があると言えます。

 

今日のテクノロジーは、ある日突然に天才のひらめきから飛び出してくるわけではなく、長い時間を要する、企業と大学の投資計画と組織的な研究開発活動によって生み出されるものです。未来のテクノロジー (の一部) は、既に現在市場に存在していなければならないと言えます。けれども、ここ10年程度の範囲で研究段階を超え市場投入された技術の中に、シリコン製の半導体集積回路の性能を即座に超えて代替することが可能な技術は、現在のところ見当りません。

もちろん、明日にでも新しい技術が開発され、爆発的に普及が進む可能性は否定しません。けれども、実際に今現在見えているテクノロジーとその成長速度を検討すると、どうやら(拡張)ムーアの法則を維持するほどの将来性があるテクノロジーは存在しないように見えます。

 

そこで、次回のエントリでは研究開発段階にある具体的なテクノロジーを取り上げ、その将来性を議論してみます。

ムーアの法則は一般化できるか

このエントリは少し長くなってしまったため、最初に結論を述べておきましょう。

  • 『(拡張) ムーアの法則』の過去の実績は、将来に渡ってそれが継続するということの証明にはならない
  • (拡張) ムーアの法則自然法則ではなく、将来に渡って単一の基準で継続する根拠は何もない
  • もし過去の実績から未来について述べることを許すのなら、『これまであらゆるテクノロジーの成長は永続しなかった。だから、情報テクノロジーの成長もいずれ止まる』という主張も、同様に論理的に肯定しなければならない


情報テクノロジーの指数関数的成長が永続するはずがない、という私の指摘に対して「これまでいかなる状況においても過去、計算能力は指数関数的に成長してきたのだ。」という反論がありました。

まず述べておきたいのは、過去実際に起きた「計算性能の指数関数的成長」という歴史的事実に対しては、私のようにシンギュラリティ到来に懐疑的な論者でさえ疑いを持っているわけではないということです。(おそらくそんなことを言うのは頑迷な反実在論者だけでしょう)
この再反論は、私の反論の重要なポイントを無視しています。「シンギュラリタリアンは、物理的、経済的、社会的なあらゆる制約を無視して将来も指数関数的成長が続くと主張していること」が、私の批判対象です。つまり、将来予測としての妥当性を疑問にしています。

ヒュームの帰納法への懐疑論

さて、ここで取り上げた再反論は、本ブログでも以前に取り上げ批判した帰納法を用いた推論が元となっています。つまり、「過去ある傾向に従ってきた。だから、今後もこの傾向が続く」という論理です。けれども、18世紀スコットランドの哲学者デイヴィット・ヒュームが批判した通り、帰納的推論を用いて確実な知識に至ることは不可能です。

ヒュームによる帰納的推論に対する懐疑論の論旨を簡単に紹介しておきましょう。
帰納的な推論は、「自然の斉一性」を暗黙の前提としています。自然の斉一性とは、端的に言えば「これまで観察したものと、まだ観察されていないものは似ている」という原理であり、この原理のもとで、有限の事例から一般法則を導くという帰納的推論が根拠付けられます。

「自然の斉一性」は、自明のこととして前提にして良いように感じられます。けれども、ヒュームが批判するところによると、自然の斉一性、「これまで観察したものと、まだ観察されていないものは似ている」という原理自体が、世界に対するこれまでの観測結果から導き出されたものであり、これ自体が帰納的推論の構造を持っています。
けれども、そもそも「自然の斉一性」は、枚挙的帰納法を根拠付けるために必要とされた原理なのでした。つまり、帰納法の原理自体が帰納法に依存していることになります。これは、聖書の記述の正しさを聖書自体を用いて証明するような、一種の循環論法ではないかとヒュームは批判しています。


ただし、私は自然科学については自然の斉一性を前提にしても認識論上の大きな問題は生じないだろうと考えていますし、実際の科学研究において自然の斉一性自体が真の問題になるような領域 (宇宙論や高エネルギー物理学など) はそれほど多くありません。
けれども、人間の意思や意図によって左右される事象に対して斉一性を前提として帰納法を使用すると、しばしば問題を引き起こします。

 

人間の意思は斉一性を前提にできない

20世紀イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、特に人間の意思が絡む事象について帰納的推論を用いることの問題点について、ある寓話を残しています。

ある鶏が毎日朝9時に餌を与えられていた。餌が与えられる時間は、あたたかな日にも寒い日にも雨の日にも晴れの日にも9時であることが観察された。そこでこの鶏はついにそれを一般化し、餌は9時になると出てくるという法則を確立した。
そして、クリスマスの前日、9時近くなった時、鶏は餌が出てくると思い喜んだが、餌を与えられることはなく、かわりに首を切られてしまった。

前回のエントリで詳細に述べた通り、(狭義の) ムーアの法則は歴史を扱う経験則であり、半導体企業の事業戦略、技術開発戦略、広告戦略上の意思決定によって左右されるものです。半導体企業が経済的合理性を曲げてまで (狭義の) ムーアの法則を維持すると考える根拠は何もありません。まして、(狭義の) ムーアの法則の停滞に見合う速度で、(拡張) ムーアの法則を維持できる新技術が開発され、速やかに市場に投入されるという予測を肯定する根拠もありません。
もちろん、可能性としては私も新技術の登場を否定するものではありません。けれども、現代の高度化・専門化した技術開発においては、技術開発から市場投入までのリードタイムは長期化しています。また、新しく開発される技術が「計算速度のコスト効率が指数関数的に成長する」という (拡張) ムーアの法則を維持する技術である必然性は存在しません。

なお、誤解しないで欲しいのですが、私は今後人類の歴史において「鶏が首を切られる」レベルの破局的な事象が起きると主張したいわけではありません。(それこそ予測不可能な事象です) ただし、あくまで蓋然性の問題としては、今後いずれかの時点で技術開発のペースが穏やかになるという予測が最も妥当であると考えています。


実際的な帰納的推論

これまで、帰納的推論に関する問題を2点挙げて批判してきました。けれども、私自身も実生活においては当たり前のように帰納的推論を使用しますし、実際のところ、工学においても帰納的推論は非常に有用なものです。

思い出してほしいのですが、ゴードン・ムーア氏のオリジナルの「ムーアの法則」において、ムーア氏は6, 7年の間、たった5つのプロセッサの集積密度を観察して法則を定式化したのでした。
論文発表当時には、これは早すぎる一般化であり、こんな少数の事例から今後の傾向を予測することなど不可能だ、とムーア氏は批判されたと言われています。けれども、結果的にはムーア氏が正しかったことは歴史が証明しています。

 

さて、そこで私もこれまでの議論は脇に置いて、帰納的推論を大いに活用することとしましょう。

過去のテクノロジーの成長を確認してみれば、これまであらゆるテクノロジーの指数関数的な成長は永続していないことは明白です。化学、医療、機械、建築、運輸、エネルギーや食料など、現代社会を支えるありとあらゆる技術について、指数関数的な成長が続いていないという証拠を挙げることができますし、化学反応、生命現象や質量の移動に必要とされるエネルギーがゼロにならない以上、今後も指数関数的な成長を遂げると考える合理的な根拠はありません。

過去、あらゆるテクノロジーにおいて成長の停滞が観察されたことから、「今現在成長が継続している情報テクノロジーも、いずれは成長が止まるだろう」と (帰納的に) 予測することができます。
けれども、今後どれだけの期間において情報テクノロジーの成長が継続されるかは不明ですが、「テクノロジーの成長速度が無限大となった」事例は、過去において1件たりとも存在せず、まして人類文明全体のテクノロジーの成長速度が無限大になるという「シンギュラリティ」は、帰納的に肯定できない主張です*1

純粋な論理の上での議論では、どちらの将来予測を肯定することも否定することもできません。予測の妥当性は、現実の世界の観察によって、実証的に示す必要があります。

 

そこで、具体的な要素技術について、将来性の検討を行うことにします。

次のエントリにおいては、(拡張) ムーアの法則を延命できる可能性があると喧伝されている技術を取り上げ、直近の将来における将来性を検討します。現在における私の暫定的な結論として、たとえ技術革新が進んだとしても「計算速度のコスト効率が2年で2倍になる」という(拡張) ムーアの法則を満たすタイムスパンでの市場投入はあまり見込めない、そもそも新しく開発される技術が同一の比較基準で「進歩」する必然性は何も無い、と考えています。

  

人間知性研究―付・人間本性論摘要

人間知性研究―付・人間本性論摘要

疑似科学と科学の哲学

疑似科学と科学の哲学

*1:もちろんこの論証には明確な不備があります。けれども、今示そうとしているのは、帰納法の論理を用いて正反対の主張ができるということです。