シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

グレイ・グーとシンギュラリティのリスクマネジメント論

シンギュラリタリアンやトランスヒューマニストが (分子) ナノテクノロジーの重要な応用先としてみなしているのは、医療分野であるということをこの連載の最初に述べました。

そこでは、分子スケールで動作するナノマシンを体内に注入することによって、たとえば、内臓疾患を体内から検査したり、病原菌や癌細胞を個別に破壊して治療すること、更には、身体や臓器そのものを作り替えることで寿命を劇的に延長したり、脳をスキャンすることで自分の自我をコンピュータ上にアップロードすることなどが想像されています。

ここで1つ大きな問題となるのは、ヒトの1つの細胞は約10^14個の原子から構成されており、個々の臓器には10億〜100億もの細胞が存在するということです。個々の細胞や臓器をナノスケールで操作することは (もし可能だとしても) 途方もない時間を要するでしょう。

 アセンブラーと指数関数的製造

この問題に対して、分子ナノテクノロジーの提唱者が仮説上の解決策として提案しているアイデアに、「自己増殖型のアセンブラー(レプリケーター)」があります。すなわち、ナノマシン自体に自身と同等のナノマシンを作成する能力を持たせることによってナノマシン自体を倍々で増加させ、巨視的な物体を操作するに足る大量のナノマシンを作り出すというものです。

そもそも「レプリケーター」を実際に作ることが可能なのかという工学的な問題はさておき、「自己増殖型のナノマシンが自己増殖型のナノマシンを作成する」というアイデアナノマシンが一定時間のうちに倍々に、指数関数的に増えていくという考え方は、ある種の破滅的な未来像へと即座に継がるということは理解できるでしょう。暴走し制御不能となったアセンブラーが、指数関数的に周囲のあらゆる物質をアセンブラーへと作り替えていき、短時間のうちに地球上のあらゆる物質がアセンブラーと変えられてしまうという、一種の終末論的な未来予想です。

この仮説上の終末予測は「グレイ・グー」、原義では「灰色のドロドロ」と呼ばれています。分子ナノテクノロジーの提唱者エリック・ドレクスラーが著書『創造する機械』の中で議論し、またビル・ジョイ氏の『ワイアード』誌の記事「なぜ未来は我々を必要としないのか?*1」の中でも取り上げられており、特に米国では (サイエンスフィクション作家や未来学者を中心に) 非常に活発に可能性と危険性が議論され、科学者や政府関係者がその可能性を打ち消すために発言が必要なまでの状況となったようです。ナノ・ハイプの記述によれば、『グレイ・グーのシナリオは「ばい菌や病原菌に対する人間の原始的な恐怖を引き出した」』ためであると記載されています。

リスク、確率、期待値

ここで私が議論したいことは、グレイ・グーのシナリオの妥当性や蓋然性の高低ではありません。(実際のところ、グレイ・グーどころか「自己増殖しないナノマシン」でさえ本当に可能であるのかすらまだ実証されていないのですから) そもそも、ナノテクに対するハイプ自体が下火の現在、グレイ・グーを大真面目に心配している人もごく少数でしょう。

けれども、注目するべきは、破滅的で終末論的な将来予測を持ち出すことを正当化するための論理です。


グレイ・グーに限らず極端な将来予測を取り上げる論者は、議論の必要性を述べるために、しばしばリスク評価に関する期待値を持ち出しています。
(リスク)=(事象の発生確率)x(予想される損害) 」として定義される「リスク=期待値」を考慮すると、発生確率が微小であっても損害が巨大であるのならば「リスク」はある一定の値を取ります。ゆえに、ありふれた些細なミスも、ごく稀にしか発生しない重大な事故も、双方に同様の注意を払うべきであるという結論が得られます。

このリスク計算の考え方は、ある範囲内では合理的なものです。2011年に発生した東日本大震災原発事故の際、政府・東京電力関係者は「想定外」、「予見不可能」という言葉を繰り返し発していました。けれども、原発事故によって発生することが予想される被害は甚大なものになるということは、過去の原発事故から既に広く知られていた事実でした。つまり、地震津波といった天災の確率がいかに低いものであり予測不可能であったとしても、原発事故を想定した対策を事前に準備できなかったことに対して政府・電力会社が不作為の責任を負うことは避けられないでしょう。

同様の論理が、ナノテクのグレイ・グーの議論にも、そして人工知能のシンギュラリティに関する議論を正当化するためにも使われています。このような極端な未来を考慮すると、そこで予測される損害は不可逆的かつ無限大 (ないし極めて巨大な値)であるために、どれほど発生確率が小さくとも、リスクの値「事象の発生確率 (有限の正の値)」x「損害 (無限大)」から計算される値は、無限大の (ないし極めて巨大な) 値を取ります。ゆえに、蓋然性が高いと思われる平凡な未来よりも、極端で破滅的な (またはユートピア的な) 未来像を考慮し、議論することが必要なのである、と主張されることがあります。

この主張は、一見、地震原発事故のリスク計算と同様の論理構造を持っているかのように見えます。けれども、私はこの主張はあまり妥当ではないと考えています。


まず、「事象の発生確率」について言えば、天災や戦乱のような人類史において度々起きた「ありふれた」出来事と異なり、グレイ・グーやシンギュラリティの「発生確率」を明確に定義することはできません。そもそも、ジャン=ガブリエル・ガナシア氏が言うところの「蓋然性や可能性を論じる前に信憑性すら疑われる話」なのですから。

また、人類史において前例がなく、発生確率は極小と考えられる事象であっても、人類に対して不可逆かつ甚大な影響をもたらすと考えられる出来事は多数存在しています。たとえば、巨大隕石の衝突、破局噴火、核戦争、巨大磁気嵐、ガンマ線バースト、宇宙人の地球侵略、アセンションなどいくらでも挙げられるでしょう。(これらの事象が起きないということを明確に証明することは困難です) ここで挙げたような、可能性を否定することができず、グレイ・グーやシンギュラリティよりも蓋然性が高いと思われる、あらゆる破滅的な終末を考慮せず、自分が好む特定の説だけに注目することは、論理整合的な態度であるとは言い難いものです。

そして、「予想される損害」に関して言えば、この項に無限大 (または極めて巨大な値)  が入ることは、リスク評価の計算をひどく歪めてしまいます*2

一等の賞金が無限大であるような宝くじの存在を仮定してみます。すると、たとえ一等の確率がどれほど小さいものであったとしても、それがゼロでない限りは全財産をつぎ込んででも宝くじを買うことが「合理的」であるという、パラドックスめいた状況に陥ります。想定被害が無限大の場合も同様であり、被害を避けるためには現時点の全てのリソースをつぎ込んででも回避することが必要であるという、これまたとんでもなく馬鹿げた話となってしまいます。セントルイスワシントン大学の哲学教授であるロイ・ソーレンセンは、意思決定モデルとしての『パスカルの賭け』を検討した論文の中で、サンクトペテルブルクの逆説を例に挙げて、無限大の期待値を含む意思決定理論の妥当性について注意を促しています*3

極端な未来予想のリスク計算においては、「事象の発生確率」と「予想される損害」のそれぞれについて、非常に重大な問題が隠れていると言えます。

なぜこの議論は問題か

さて、このようなリスク推定の議論が問題であるのは、しばしばこの論理が立証責任を懐疑論者に転嫁するために用いられる手段であるからです。既に何度か、私はシンギュラリタリアンが立証責任を放棄し、むしろ懐疑論者へと立証責任を押し付ける傾向について論じてきました。

ここでは、トランスヒューマニストとして著名な哲学者、ニック・ボストロム氏の論文から一例を紹介します。

…to assume that artificial intelligence is impossible or will take thousands of years to develop seems at least as unwarranted as to make the opposite assumption. At a minimum, we must acknowledge that any scenario about what the world will be like in 2050 that postulates the absence of human-level artificial intelligence is making a big assumption that could well turn out to be false. It is therefore important to consider the alternative possibility: that intelligent machines will be built within 50 years.*4

(試訳) 人工知能が不可能である、または開発に数千年かかると推定するのは、少なくとも、その逆の仮定をすることと同じくらい不当であるように思われる。最低でも、ヒトレベルの人工知能が存在しないことを前提とする2050年の世界に関するシナリオは、誤っている可能性の高い仮定であることを認めなければならない。したがって、別の可能性を考えることが重要である:知能機械は50年以内に構築される。

この議論は、無知論証の一種であると言えます。すなわち、可能性を否定する根拠がないのだからそれは可能である (議論に値する)、と主張する論理的な誤りです*5

論理的に、あるいは物理法則からは予測を否定できないため可能性はゼロではないのだから、あとは極端な被害や利益をもたらす予測を提示しさえすれば、期待値は巨大となる。ゆえに、その予測は議論に値する、それを否定するのであれば懐疑論者が不可能である根拠を示せ、というわけです。

実際のところ、何らかの未来予測について語る場合には、普通は予測者自身に予測の妥当性を立証する責任がある、と考えられます。たとえば、地球温暖化の人為説を論じるのであれば、通常は人為説を唱える側が人間の活動と温暖化との関連を立証する責任が発生します。ところが、この種の誤ったリスク計算の観点からは、むしろ懐疑論者が根拠を立証する責任を負わされ、否定の根拠を示せないのであれば、懐疑論の主張自体が無責任だと非難されてしまうのです。

このような責任転嫁は、シンギュラリティ論に限らず、ナイーブな反原発運動や代替医療など疑似科学的な主張において広く見られます。

 

もう一件、この種の議論が問題である実際的な理由は、現在現実に発生している問題、または近い将来発生しうる蓋然性の高い問題への注目を下げてしまう可能性があることです。

ナノテクの例を挙げれば、カーボンナノチューブが発ガン性を持つ可能性が指摘されていますし、脳に蓄積した微小粒子とアルツハイマー病の関連を疑う研究もあります。人工知能機械学習の問題について言えば、たとえばビッグデータの利用にからむプライバシー権の問題、中立を装ったアルゴリズムによって人々が眼にする記事やSNSの投稿が巧妙に操作され、特定の企業、政党や国家へ有利なように意見が誘導される問題などが挙げられるでしょう。

このような問題は、科学技術的な観点からの議論のみならず、法的な制度設計も含めた広範な議論を必要としますが、極端な未来予測によってそれが覆い隠される危険性も存在しています。それどころか、この種の極端な未来予測は、ガナシア氏が指摘する通り現在起きている何らかの問題から世間の注目を遠ざけるための目くらましとして使用されている可能性さえあります。この種の問題は、遠い将来に起きる可能性があるごく小さな発生確率の問題ではなく、今の時点で既に起きている現実の問題です。

ドイツ ダルムシュタット工科大学の哲学・科学哲学教授のアルフレッド・ノルドマン教授は、哲学や倫理学の思考のために用いられる思考実験において、科学技術を乱用することを戒めています。それは、我々の倫理的な関心や公共的な議論は希少な有限の資源であり、現在においてすらテクノロジーに由来する問題が生じている状況で、遠い未来の不確かな予測に対して、資源を乱用するべきではない、という理由からです。ノルドマン教授が主に対象としているのはナノテクノロジーですが、これは人工知能に関する昨今の議論にも全く同様に当てはまります*6

 

もちろん、改めて言うまでもなく未来は不確実であり、未来のリスクを評価しマネジメントすることは重要なプロセスです。けれども、この種の極端な未来予測が、私たちの将来に関する議論と政策を歪めることは望ましくない、と私は考えています。

*1:ビル・ジョイなぜ未来は我々を必要としないのか?

*2:これは原義のシンギュラリティ、無限大の発生により論理や規則が破綻することですね。

*3:Roy Sorensen(1994) "Infinite decision theory" Gambling on God: Essays on Pascal's Wager, p.139-159

*4:Nick Bostrom (2006), Welcome to a world of exponential change

*5:ホメオパシーなどの代替医療に効果があることは否定できないのだから、それは議論に値する、否定するのであればその根拠を示せ、という疑似科学的主張と論理的に同等。

*6:Alfred Nordmann (2007), If and Then: A Critique of Speculative NanoEthics https://www.americanbar.org/content/dam/aba/administrative/bioethics/nordmann-if-and-then-a-critique-of-speculative-nanoethics.authcheckdam.pdf

人工知能とサイエンスフィクション

前回のエントリでは、ナノテクノロジー概念の起源を探っていく中で、その系譜がサイエンスフィクションと魔術へと辿れることを指摘しました。

そして、ここで私が問題にしている人工知能とシンギュラリティ論の起源が、サイエンスフィクションに由来することは、今更改めて指摘するまでもなく、広く知られた事実でしょう。

現代的なシンギュラリティ論を唱えたヴァーナー・ヴィンジ氏は、数学者であると同時にサイエンスフィクション作家でもありました。初期のシンギュラリティ論は、研究者よりはむしろサイエンスフィクションの作品を通して議論が進められていたものです。

人工知能そのものに関しても、実用的な技術開発よりもサイエンスフィクション的な想像力が先行して大衆的なイメージが作られたと言えますし、人造人間や人工的な生命体の創造という観点で考えれば、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』から錬金術パラケルススホムンクルスに至るまで、人間のイマジネーションの中において非常に長い歴史が存在しています。

もちろん、現代の人工知能 (機械学習) の真摯な研究者は、現代の人工知能研究はそのようなオカルト的/サイエンスフィクション的な想像力からは離れたものであると主張するでしょう。けれども、前回のエントリで取り上げたナノテクノロジーの場合と同様、シンギュラリタリアン/トランスヒューマニストのビジョンの中では、魔術的な思考は極めて一般的なものであるように見えます。

 

第2回シンギュラリティシンポジウム ⑥ パネルディスカッション「日本からシンギュラリティを起こすには〜その具体的な方策」 | シンギュラリティサロン

「シンギュラリティ」を題したシンポジウムにおいて、松田卓也氏、山川宏氏や高橋恒一氏といったシンギュラリティ論に親和的な研究者たちが、「地球派」や「宇宙派」といったサイエンスフィクションと見まごうばかりの語彙を使いながら人工知能の未来について語っている姿を見ると、オカルト/サイエンスフィクション的な発想と汎用人工知能の研究の現場は、さほどの隔たりが存在しないように感じられます。

これまで私が延々と述べてきた通り、シンギュラリティ論は「あまりにありそうもないことであるため、真面目に検討するに値しない」議論であり、この種の議論に参加する研究者は、残念ながら研究者としての能力と資質に疑問を感じざるを得ません。もしも彼らがこの種の議論を全て信じ込んでいるのであれば彼らの能力と知性を疑わざるを得ませんし、研究資金や投資獲得のために自分ですら信じていない与太話を利用しているのであれば、今度は研究者としての知的誠実さに対する問題となります。

このような大風呂敷を広げた未来予測と、伝統的な科学的・学問的価値観との葛藤が、科学技術研究そのものに対するある種の冷笑主義を招きかねないという懸念は、おそらく理解できるだろうと思います。端的に言えば、学者は論文以外の場所、研究提案や自身の成果のメディア向けリリースなどでは、ホラを吹くものだと見なされかねません。

 

このブログでも度々取り上げているナノテクノロジー研究者のリチャード・ジョーンズ氏は、90年代から2000年代に広まったナノテクに対するハイプ、つまり非現実的な期待と恐怖を煽る誇大広告が、ナノテク分野の健全な発展を損なったとして、シンギュラリタリアニズム/トランスヒューマニズムに対して非常に強い調子で批判を加えています。

現在の(汎用)人工知能研究も、ナノテクのハイプ、そしてかつての「人工知能の冬」と同様の運命を辿る可能性は非常に高いと考えています。そして、おそらく、その実現しなかった約束に対する支払いは、人工知能機械学習のコミュニティ自身が負うことになるでしょう。

ナノテクノロジーの奇妙なオカルト的起源

ナノテクノロジーについての歴史が書かれる際には、遡及的に、物理学者リチャード・ファインマンによる1959年の講演『底にはたっぷり空きがある』から始められる場合が多いようです。

けれども、概念としてのナノテクノロジーの起源はもう少し以前にまで遡り、またそこには極めて奇妙な系譜が存在しています。歴史学者文学史家であるコリン・ミルバーン氏は、著書『Nanovision』の中で、ナノテクノロジーのアイデアは、実のところ、ファインマンの独創ではなく、既に当時サイエンス・フィクションの中に存在していた微小機械のアイデアであったと指摘しています。その他にも、漫画『銃夢』を描いた漫画家の木城ゆきと氏も、漫画の後書きの中でファインマンに対するハインラインの影響を指摘しています。

 

ミルバーンによれば、ナノテクノロジーのアイデアについて直接的な関連が認められるものは、ファインマンによるリモコンロボットハンドの概念です。小さな「ロボットハンド」を使って、更に小さな「ロボットハンド」を作り、再帰的にその操作を繰り返すことによって次々と「手」のサイズを縮小していき、最終的にはナノスケールの機械を作り出すというアイデアです。

このアイデアは、サイエンスフィクション小説の大家ロバート・ハインラインの『ウォルドゥ』という中編に由来していると指摘されています。小説の中では、主人公ウォルドゥが細胞サイズで外科的手術を行う方法を発明しています。ファインマンハインラインを読んでいたという直接的な証拠はありませんが、ファインマンが指導した大学院生で彼の個人的な友人でもあったアルバート・ヒッブズが、確かにこの小説を読んでおり、そのアイデアファインマンに伝えていたという証言があります。ヒッブズは、カルテクのジェット推進研究所で働いており、彼はハインラインのロボットハンドのアイデアを宇宙開発に応用できないかと検討していたのだそうです。


小説「ウォルドゥ」の舞台は、原子力による豊富なエネルギーを利用できる近未来に設定されています。主人公のウォルドゥ・ジョーンズは、天才的ではあるものの身体障害を抱えた、醜く、気難しいエンジニアです。彼は、先天性の筋力障害を抱え、そのため重力の小さい周回軌道上の衛星で暮らしています。彼の発明品の中には、発明者と同じ名前を持つ「ウォルドゥ」という微小サイズのリモートコントロールロボットが存在していました。

この小説の舞台装置は、ハードなサイエンスフィクションの装いをまとっています。けれども、小説のプロットは科学よりは魔術めいた方向へと進んでいきます。主人公ウォルドゥ・ジョーンズは、ある種の不可解な事故の原因調査を進める中で、砂漠に住む隠者であり魔法使いであるシュナイダー氏に出会い、導かれ、平行世界である「他界」のエネルギーにアクセスする方法を学ぶことにより、自身の障害を克服し、真に健全な身体をもつダンサーへと生まれ変わるのです。


ハインラインの小説における魔術的な発想は、ジャック・パーソンズという人物に由来していることが指摘されています。パーソンズは、ジェット推進研究所の創設者であり、初期の米国の宇宙開発計画に貢献したロケット科学者です。そして、彼は魔術にも深く関心を持ち、近代英国のオカルティストであるアレイスター・クロウリーの信者でもありました。クロウリーは、「偉大な獣」「世界一邪悪な男」とも呼ばれ、魔術儀式、特に過激な性的魔術に対する関心と実践により、当時からスキャンダラスな注目を集めた人物でした。

1941年、パーソンズは、クロウリーが再編した宗教団体 Ordo Templi Orientis (東方聖堂騎士団) のハリウッド支部長に任命されています。1942年にはパーソンズはロサンゼルスSFソサエティでロバート・ハインラインと出会い、2人は親交を深めたと言われています。『ウォルドゥ』が出版されたのは、まさにその年のことでした。


かつて、特に米国においてナノテクノロジーに仮託されていた半ば夢想的なビジョンの起源を、オカルトとサイエンスフィクションの系譜に求めることはやや短絡的であるかもしれませんが、ミルバーンも「ナノテクの魔術的なオーラ、不可能を可能とするという主張は、パーソンズ-ハインライン-ヒッブズ-ファインマンの系図を通してもたらされたものと考えたくなる」と述べています。

もちろん、ナノテクノロジー分野の真摯な研究者は、現代の研究はそのような魔術的思考からは遠く離れていると主張するでしょう。けれども、ナノテクノロジーの研究者であるリチャード・ジョーンズ氏も指摘する通り、シンギュラリタリアン/トランスヒューマニストのビジョンの中では、ナノテクノロジーと魔術がそれほど隔たっているようには見えません。

結局のところ、かつてナノテクの揺籃期にそれがもたらすと夢想されていた未来像、すなわち変性意識体験による知覚と認識と現実の変容 (現代ではさしずめヴァーチャルリアリティでしょうか)、物質の変換による豊穣さ、隠された叡智の獲得、老化と死の克服による永遠の生命などは、伝統的な神秘主義者、錬金術師や魔術師によって追求されてきた目的とそれほど異なっていないからです。トランスヒューマニストにおける魔術的なビジョンの存在は、批評家のデール・キャリコや宗教家のジョン・マイケル・グリアなどによって繰り返し指摘されています。

そして、近年の科学技術における幼稚な希望的観測としての「賢者の石」としての役割は、最近ではナノテクノロジーから人工知能へと移り変わったように見えます。

 

この項続きます。

 

 

Nanovision: Engineering the Future

Nanovision: Engineering the Future

銃夢(1)

銃夢(1)

分子ナノテクノロジーの予測とナノハイプ

私は、カーツワイル氏によるナノテクノロジーに関する予測は、もはや議論に値するものであるとは考えていません。『ポスト・ヒューマン誕生』におけるナノテクノロジーに関する予測が既に外れていることはほぼ明らかであり、現在ですら議論が古びており、その影響力は既に失なわれているからです。

たとえば、『ポスト・ヒューマン誕生』におけるカーツワイル氏の予測では (分子) ナノテクノロジーの発展は「強い」人工知能の開発よりも先行するとされており、2010年代からナノテクノロジーの実用化が進み初め、2025年頃には完全に普及すると主張していました*1 *2

また、カーツワイル氏は、ナノテクノロジーによって2020年までにエネルギー供給の指数関数的的な加速が開始されると主張していました。*3

また、2010年を予測した記述には「2010年代が始まるころには、コンピュータは基本的にはその姿を隠すようになっているだろう。つまり、衣服の中に編み込まれたり、家具や環境の中に埋め込まれたりしているのだ。*4」とあります。

そして、現在のシンギュラリティに関する議論において、機械学習研究者、計算機科学者や脳神経生理学者ではなく、ナノテクノロジー研究者が何か発言を求められることがどれだけあるでしょうか? シンギュラリティを題したシンポジウムやカンファレンスに、どれほどのナノテクノロジー研究者が出席しているでしょうか?

これら全ての記述を、どれだけの人がリアリティを持って受け止め、真剣に考えているでしょうか。端的に言えば、ナノテクノロジーに関するカーツワイル氏の記述は、既にテクノロジーの将来に対するビジョンとしての力を失なっています。

そして、現在のナノテクノロジーの主流な研究においては、ドレクスラー型の分子ナノテクノロジーのビジョンはほとんど共有されていないように見えます。現在主流の研究は、穏当な材料工学の一分野であるか、あるいは生物が分子を扱う原理とそれほど異ならない、リチャード・ジョーンズ氏が呼ぶところの「柔らかい(ソフトな)」ナノテクノロジーであるからです。

ナノ・ハイプ

けれども、ここで私がナノテクノロジーについて取り上げることには別の意図があります。現在の人工知能に関するハイプ -誇大広告と過剰期待- を考える上で、ナノテクノロジー研究の歴史と発展が極めて有用な題材となるからです。

つまり、有用な技術開発よりもサイエンス・フィクション的な想像力が先行して大衆的イメージが作り上げられ、ある種のトリックスターによる空想めいた書物がハイプを更に加速させ、ありとあらゆる種類のステークホルダー、官僚、政治家、産学界のリーダー、投資家、環境活動家などが自身の利益のために期待と恐怖のハイプを煽り、その後、急速に膨れ上がった期待の裏返しにより大衆の熱狂が冷め研究者がしっぺ返しを喰らい、しばらく経ってからハイプとは無関係な形で有用な技術が開発されるという傾向が見られるからです。

ナノテクノロジー」に関する物語とその分析は、登場人物を「人工知能」に変更すれば、そのまま現在でも通用するものであるように見えます。そこで、私はここではナノテクノロジーを通して、テクノロジーに対するハイプのあり方を探ってみたいと考えています。

なお、ここでのナノテクノロジーに関する議論は、リチャード・ジョーンズ氏による反トランスヒューマニズム電子書籍Against Transhumanism』と『ナノ・ハイプ狂騒』を参考にしました。

 (『ナノ・ハイプ狂騒』は、テクノロジーとハイプを考える上で極めて有用な書籍なので、広く読まれてほしいと願います)

ナノ・ハイプ狂騒(上)アメリカのナノテク戦略

ナノ・ハイプ狂騒(上)アメリカのナノテク戦略

ナノ・ハイプ狂騒(下)アメリカのナノテク戦略

ナノ・ハイプ狂騒(下)アメリカのナノテク戦略

*1:『ポスト・ヒューマン誕生』p.332

*2:近年のインタビュー記事では、いわゆる汎用人工知能の開発後にナノテクノロジーが進歩すると述べていますが、予測を変更した理由に関しては何も述べられていません

*3:近年では確かに太陽光発電の進歩が続いていますが、これを「分子」ナノテクノロジーの功績に含めるのはやや後講釈が過ぎる感があります

*4:『ポスト・ヒューマン誕生』p.402

ナノテクノロジーとは何か

ナノテクノロジーとは、物質をナノメートルの単位、すなわち、十億分の一メートルという原子や分子の単位で扱う技術の総称です。つまり、微小スケールを対象とする量子物理学、材料化学、分子生物学、および機械的加工技術、計測技術などにまたがる学際的な研究分野を指しており、ナノテクノロジーという何らかの単一の技術分野が存在するわけではありません。

技術雑誌『ザ・ニュー・アトランティス』の編集者であるアダム・カイパー氏によれば、「今日ナノテクノロジーとして受け取られているものは、実際にはただの材料工学である。主流のナノテクノロジー、つまり何百もの企業に実践されているものは、従来の化学工学と新たに手にしたナノスケールの力との知的成果にすぎない。」とされています。実際のところ、材料ナノテクノロジーは何ら目新しいものではなく、「ルネサンス期の芸術家はナノ粒子によって魅力的な色と光彩を得た絵の具やうわぐすりを用いた。古代人もすすのナノ粒子の利用法を見つけていた。*1」とも述べられています。

分子ナノテクノロジー

けれども、私がここで取り上げるつもりの、カーツワイル氏をはじめとするシンギュラリタリアンやトランスヒューマニストによって想像されている「ナノテクノロジー」は、分子機械・分子製造あるいは総称して分子ナノテクノロジー (Molecule Nanotechnology; MNT) と呼ばれる、より「過激な」種類のナノテクノロジーです。

化学の基礎知識によれば、人間の身体も含め、私たちが手に取ったり口にしたり身に付けたりするあらゆる物質は、限られた種類の原子から構成されています。これまでに知られている原子の種類は100を超える程度で、日常的に私たちが扱う物質においては、原子の種類はせいぜい数十種類でしょう。ゆえに、ナノスケールの機械を用いて原子を望みのままに配置することができれば、原理的には、原子から分子を、そしてあらゆる種類の物質を作り出すことが可能である、と主張されています。

こうしたナノスケールの製造機械の概念を「万能ユニバーサルアセンブラー」と名づけ、著書を通して広く普及させたエリック・ドレクスラーは以下のように述べています。

アセンブラーは、もくろみどおりに原子を配列することができるので、自然の法則の許す限り、何でも作り上げることができる。我々がデザインできるものがあればどんなものでも、アセンブラーは実現してくれるので、このようなアセンブラーがもたらす影響ははかりしれない。…だからアセンブラーを使えば、我々の世界を再構築することも可能だし、破壊することもできる。」*2

この種の分子ナノテクノロジーの実現によって、カーツワイル氏をはじめとするシンギュラリタリアンやトランスヒューマニストが目指していることは、まず手始めに、物質的な欠乏の終焉であると言えます。あらゆる食料、衣服、家具から複雑な工業製品までを、ちょうど現在インターネットから音楽をダウンロードしスマートフォンで聞くように、手近な原材料からソフトウェア的に構成することで、望みの物質を何でも手にすることができる、と夢想されています。

…実際、海外のテレビで放映されたナノテクノロジーの特集番組にこんなシーンがあった。ドレクスラー本人が出演して、電子レンジの中に牛の食べ物である牧草と空気と水を入れ、ボタンを押す。チンと鳴ってふたを開けると、何とステーキの出来上がり!という趣向である。もちろん映像のトリックだが、ドレクスラーは、こうしたフィクションのような世界がナノテクノロジーによって実現できると主張したのである。あまりにも荒唐無稽で、科学の範疇から逸脱していると思うかもしれないが、このドレクスラーの考え方は、物理法則として間違ってはいない。確かに一見SF的だが、実はこれと同じようなことが,生物の体内では日常的に起こっているからである。*3

ナノテクノロジーと医療

そして、ナノテクノロジーによって変貌すると予想されているのは、外部のモノの世界だけではありません。人体も当然、原子から構成されているため、ナノテクノロジーを医療に応用することによって、肉体や生物学上の制限すら取り払われると言われています。ナノスケールのロボット (ナノボット、ナノマシン) を体内に注入することで、病原菌や癌細胞を除去し、あるいは脳や身体の機能を強化し、老化を防止し若返りすることすら想像されています。ドレクスラーが想像した「レストーラー」というナノマシンは、肉体の細胞組織を修復することで、若い頃の健康を取り戻させることができるだろう、と主張されていました。

また、精神転送に関する記事でも取り上げた通り、脳のコネクトームと分子状態をスキャンすることで、自身の自我をコンピュータ上にアップロードすることさえ想像されています。

 

端的に言えば、シンギュラリタリアンやトランスヒューマニストのビジョンにおけるナノテクノロジーとは、人体も含めたあらゆる物質の世界を情報テクノロジーの支配下に収めてソフトウェア化し、指数関数的な成長を物質世界にもたらす手段であると言えます。

 

ナノテクノロジー―極微科学とは何か (PHP新書)

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創造する機械―ナノテクノロジー

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*1:The Nanotechnology Revolution - The New Atlantis

*2:エリック・ドレクスラー(1992) 相沼益男(訳)『創造する機械―ナノテクノロジー

*3:川合 知二(2003)『ナノテクノロジー 極微科学とは何か』p.51

製薬業界の反特異点

新薬の開発は、2329年には完全に停止します。

製薬業界の研究開発コストに対するリターンは、過去60年間、定常的に指数関数的に低下し続けてきました。シェフィールド大学物理学科教授リチャード・ジョーンズ氏によると、西暦2339年には1件の新薬開発に要するコストが (2013年時点での) 全世界のGDPを超えてしまい、新しい薬品を作ることが完全に不可能となってしまうのだそうです。

2010年までに、失敗に終わった新薬開発の費用を含めて、1つの新薬を開発するために平均で21億7,000万ドルの研究開発費用が費されていました。新薬開発の費用は、収穫加速の法則よりはむしろプランクの原理に従っており、1950年以来、1年に7.6%の割合で指数関数的に増加しています。単純計算では、9〜10年で新薬開発に要する費用が倍になるということを意味します。

もちろん、(ジョーンズ氏自身が認めている通り)、こんな外挿は馬鹿げていますが、根底にある問題は深刻です。

過去60年の間には、半導体に対するムーアの法則が完全に機能しており、情報処理の速度は凄まじい勢いで発展し続け、バイオインフォマティクスという新分野も誕生しました。生命科学、バイオテクノロジーそのものについても、ヒトゲノム計画の完了、遺伝子組み換えからゲノム編集に至るまで、革命的な進歩がありました。

 

情報テクノロジーと化学、生命科学の全ての進歩にもかかわらず、製薬業界では、研究開発の加速度的な低下が続いており、新薬の開発や人間の健康そのものには、必ずしも繋っていません。

後の8章でカーツワイル氏の過去の予測を検証する際にも取り上げるつもりですが、人間の寿命 (余命) に関するカーツワイル氏の予測は、過去20年程度を通してことごとく外れ続けており、やはり指数関数的な向上は全く見られません*1

もちろん、製薬業界や医療において将来新たなイノベーションが発生し、何らかの形で指数関数的な加速がいずれ始まる可能性は否定しません。けれども、過去の実績を確認する限りにおいてはむしろこの分野の研究開発は減速しており、シンギュラリタリアンに倣って過去の結果を未来へと外挿するのであれば、将来を必ずしも楽観することはできません。


ここから私たちが学び取らなければならないことは、あらゆるテクノロジーが一様に指数関数的に進歩しているわけではないということです。

宗教家であり、文明批評に関する著作もあるジョン・マイケル・グリアは、次のように述べています。

“There’s no such thing as technology in the singular, only technologies in the plural.”
「単数形のテクノロジーなどというものはない。存在するのは、複数形のテクノロジー(たち)だけである。」 

過去半世紀の半導体のように、一部では目覚しい指数関数的な速度で進歩するテクノロジーも存在していることは確かです。けれども、たとえば航空機の速度のように成長の速度が穏やかになった技術、医薬品や人間の寿命のように指数関数的に減速しているもの、原子力核融合発電のように、歩みを止めたどころか後退しているようにさえ見えるテクノロジーも存在しています。

あらゆるテクノロジーの情報化による指数関数的成長」などという空疎なたわ言を口にするのを止め、どのようなテクノロジーが存在しており、それぞれがどんな速度で進歩しているのか、どのような分野へどれだけの投資が必要であるのか、定量的に議論する必要があると言えます。

参考文献

遺伝子改造によるトランスヒューマン誕生

近年のシンギュラリティに関する議論ではほとんど注目されることはありませんが、ヴァーナー・ヴィンジ氏が1993年に提唱したシンギュラリティ論においては、いわゆる汎用人工知能の発明以外にも、薬剤や遺伝子工学による人間の知能増強が、シンギュラリティを引き起こす仮説上の超知能の発生方法として提唱されていました。

 

近年では、CRISPR-Cas9など、生物のゲノムを人工的に操作し、人為的に意図した通りに単独の遺伝子を編集する技術が開発されています。既に2015年には、中国でヒトの受精卵に対するゲノム編集が行なわれています*1。(ただし、これは純粋な学術実験であり、妊娠・出産を目的としたものではありません)  2017年現在のゲノム編集技術からすると、明日にでもゲノム編集を受けたデザイナーベビーが妊娠中である (または既に誕生した)、というニュースがあってもおかしくありません。

もちろん、この種のゲノム編集技術が潜在的に非常に大きな可能性と脅威を秘めており、技術的な問題のみならず倫理的な価値判断と社会制度の設計まで含めた広範な議論が必要であることは確かです。けれども、ことシンギュラリティ論に限った観点から言えば、現実的な意義と脅威はそれほど大きくありません。端的に言えば、人間を人工的に強化できるほど遺伝学の知見は進んでいないということ、そして、この種の手法の効果と副作用の検証には、人間の寿命のタイムスパンを要するからです。

 

現在では、重篤な疾患を発生させる単独の遺伝子欠損については、ある程度の知識が蓄積されています。けれども、たとえば知能の増強、身体的能力の向上、外見的な美貌の向上などについては、単独ないし少数の遺伝子のみの作用で可能であるという根拠はありません。

現代の生物学では、ゲノムは単一で働くものではなく、ネットワークを形成しその中で複数の役割を担っているという理解が一般的になっています。それゆえ、その中に特定の身体や知能の形質形成において特異的に関わるような専用の遺伝子が存在している、と考えるのは困難です。更には、遺伝子の発現においては、身体 (それ自体が多数の遺伝子が協調して働いた結果の産物) と環境からなる複雑な相互作用が影響していると考えられています。

近年の生物学の研究により、かつて考えられていたように遺伝子に特権的な役割を認める見方は揺らぎ始めています。たとえば、米イリノイ大学のジーン・ロビンソン教授の研究によると、気性が穏やかなイタリアミツバチの幼虫を、キラー・ビーと呼ばれる人を刺し殺すこともある獰猛なミツバチの巣に移して育てさせると、イタリアミツバチも獰猛な性格を持つようになったことが報告されています*2*3

ここでは、ミツバチの攻撃性に作用するタンパク質を生成する遺伝子が、周囲の「養親」であるキラー・ビーの警戒フェロモンが引き金となって働き始めたことが示されています。遺伝と環境との間に介在する仕組みは、「エピジェネティクス」と呼ばれ、近年では活発に研究が進められています。人間の身体や知能についても同様に、身体や知能の何らかの一つの要素をつかさどる特定の遺伝子が存在すると前提する見方は、無根拠に認めることは困難です。


更に言えば、仮に動物実験や理論研究によって何らかの「増強遺伝子」が発見されたとしても、それをヒトの受精卵 (あるいは成人) に適用した上で、致命的な障害が発生せず、意図した通りの効果を得ることができると検証するためには、少なくとも人間の寿命のタイムスパンに渡る試行錯誤、多数の被験者に対する追跡調査と統計的なデータの処理が必要になります*4。一般に、人間を対象とする医療処置の検証と許認可には長い時間を要し、医療目的以外の人間の強化などはそれ以上に長い時間を要することは、精神転送に関連するエントリでも述べた通りです。もちろん、(本質的ではありませんが) 安全性や倫理的な問題も存在します。けれども、たとえ安全性や倫理の問題を全く無視するような非人間的なマッドサイエンティストであったとしても、(少なくとも現状では) 細胞分裂の速度を早めることはできず、人間の成長を早めることは不可能です。

もちろん、実際問題としては、科学者や医師が倫理的問題を無視して研究を進めることは不可能であると考えられます。ヒトの遺伝子改変については、一般の倫理的な嫌悪感・忌避感がきわめて強く、既に各国で法規制が始まりつつあります。仮に、無許可で非医療目的でのヒトの遺伝子改変が行なわれたとして、患者や胎児が何らかの重大な障害を負った場合、民事上の損害賠償や刑事罰、病院や研究所の許認可や医師免許の剥奪といった行政処分、あるいは研究者コミュニティからの排除といったさまざま罰が研究者や医師に科される可能性はごく高いでしょう。(実際のところ、この種の議論は30年以上前に遺伝子組み換えの技術が開発された時から続いています)


スタンフォード大学の法学・生物倫理研究所所長であるハンク・グリーリー氏は、2015年のブログ記事で次のように述べています。

…非医療的な [訳注:遺伝子改変の] 需要は、少なくともかなりの期間は少ないままに留まるだろう。私は、ほとんどの人の本当の恐怖はこれだと考えている —すなわち、遺伝子改変された超人類である。しかし、何億ドルも研究費が費された後でさえ、我々が病理遺伝学について分かっていることは驚くほど少ない。そして、我々は「エンハンスメント[強化]」に関する遺伝学については、ほぼ何も分かっていない。

私は、非病原性の1つの対立遺伝子について、他のものよりも実質的な利点を与える可能性が高い単一の非病的形質に関して、自信を持って断言することができない。もちろん、将来には新たな発見が有りえるだろう。しかし、どれくらいの速さだろうか。私の考えは、どちらの場合においても、それほど速くはないというものだ。

 

…ヒトの生殖系列のゲノム編集については、長い間、激しい論争が続いている。どれくらいの数の将来の親が、どれほどの企業が、どれだけの病院が、それほどの小さな報酬のためにその論争を引き受けたいだろうか?

Of Science, CRISPR-Cas9, and Asilomar - Law and Biosciences Blog - Stanford Law School

 
最初に述べた通り、近年のゲノム編集技術の進歩は目覚しく、潜在的に大きな可能性と問題を秘めています。けれども、それが超知能人類を生み出すことはありません。仮にあったとしても、それは数百年、もしくは千年単位での遥か遠い遠い未来のことになるでしょう。

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