シンギュラリティ教徒への論駁の書

"It's tough to make predictions, especially about the future." - Yogi Berra

製薬業界の反特異点

新薬の開発は、2329年には完全に停止します。

製薬業界の研究開発コストに対するリターンは、過去60年間、定常的に指数関数的に低下し続けてきました。シェフィールド大学物理学科教授リチャード・ジョーンズ氏によると、西暦2339年には1件の新薬開発に要するコストが (2013年時点での) 全世界のGDPを超えてしまい、新しい薬品を作ることが完全に不可能となってしまうのだそうです。

2010年までに、失敗に終わった新薬開発の費用を含めて、1つの新薬を開発するために平均で21億7,000万ドルの研究開発費用が費されていました。新薬開発の費用は、収穫加速の法則よりはむしろプランクの原理に従っており、1950年以来、1年に7.6%の割合で指数関数的に増加しています。単純計算では、9〜10年で新薬開発に要する費用が倍になるということを意味します。

もちろん、(ジョーンズ氏自身が認めている通り)、こんな外挿は馬鹿げていますが、根底にある問題は深刻です。

過去60年の間には、半導体に対するムーアの法則が完全に機能しており、情報処理の速度は凄まじい勢いで発展し続け、バイオインフォマティクスという新分野も誕生しました。生命科学、バイオテクノロジーそのものについても、ヒトゲノム計画の完了、遺伝子組み換えからゲノム編集に至るまで、革命的な進歩がありました。

 

情報テクノロジーと化学、生命科学の全ての進歩にもかかわらず、製薬業界では、研究開発の加速度的な低下が続いており、新薬の開発や人間の健康そのものには、必ずしも繋っていません。

後の8章でカーツワイル氏の過去の予測を検証する際にも取り上げるつもりですが、人間の寿命 (余命) に関するカーツワイル氏の予測は、過去20年程度を通してことごとく外れ続けており、やはり指数関数的な向上は全く見られません*1

もちろん、製薬業界や医療において将来新たなイノベーションが発生し、何らかの形で指数関数的な加速がいずれ始まる可能性は否定しません。けれども、過去の実績を確認する限りにおいてはむしろこの分野の研究開発は減速しており、シンギュラリタリアンに倣って過去の結果を未来へと外挿するのであれば、将来を必ずしも楽観することはできません。


ここから私たちが学び取らなければならないことは、あらゆるテクノロジーが一様に指数関数的に進歩しているわけではないということです。

宗教家であり、文明批評に関する著作もあるジョン・マイケル・グリアは、次のように述べています。

“There’s no such thing as technology in the singular, only technologies in the plural.”
「単数形のテクノロジーなどというものはない。存在するのは、複数形のテクノロジー(たち)だけである。」 

過去半世紀の半導体のように、一部では目覚しい指数関数的な速度で進歩するテクノロジーも存在していることは確かです。けれども、たとえば航空機の速度のように成長の速度が穏やかになった技術、医薬品や人間の寿命のように指数関数的に減速しているもの、原子力核融合発電のように、歩みを止めたどころか後退しているようにさえ見えるテクノロジーも存在しています。

あらゆるテクノロジーの情報化による指数関数的成長」などという空疎なたわ言を口にするのを止め、どのようなテクノロジーが存在しており、それぞれがどんな速度で進歩しているのか、どのような分野へどれだけの投資が必要であるのか、定量的に議論する必要があると言えます。

参考文献