シンギュラリティ教徒への論駁の書

"Enjoying science fiction is not the same thing as doing science or making science policy." - Dale Carrico

責任ある未来予測

ここまで、私はカーツワイル氏が約20年前に述べた未来予測を評価してきました。

  

私個人の評価によれば、出版から10年後の予測は正答率55%、20年後については22%という結果でした。比較的短期の予測にはそこそこの正答率を示している一方で、長期トレンドについてはかなり予測を外しています。カーツワイル氏は、出版当時開発中だった技術動向をベースとした、短期のトレンドをよく見極めていたようです。一方で、彼が主張する長期的な、指数関数的な成長の世界観は、端的に誤りであると示されているのではないかと思います。

ただし、彼の正答率が高いのか低いのかについては、私には判断がつきかねます。短期的な、限定された技術分野や業界の予測や計画を述べる人は多数存在しますが、このような超長期かつ包括的な未来予測を提示する人はごく少なく、比較対象が少ないからです。参考までに、ハーマン・カーンとアンソニー・ウィーナーの共著で1968年に出版された『紀元2000年――33年後の世界』中の未来予測を2002年に評価した調査では、全体を合計した正答率は約50%程度であるとされています*1。10年単位の長期的な将来予測の妥当性は、話半分程度に捉えておくのが良いのかもしれません。

けれども、ちゃぶ台返しのような言い方になりますが、私は未来予測の正答率を挙げることには、それほど意味がないかもしれないと考えています。結局のところ、未来は誰にも分からないものです。また、未来予測にはある意味で「呪術的な」要素があります。つまりは、未来予測の存在自体が人々の行動を変える場合があるということです。未来予測が未来への「目標」や「計画」となって自己成就的に何かを達成したり (半導体業界におけるムーアの法則はこの好例でしょう)、あるいは逆に、破滅的な暗い未来像が人々への警告となり、予告された悪い結果の回避に繋がる事例もあります (この事例は、前世紀末の西暦2000年問題、西暦を下2桁で表現していた古いコンピュータが暴走し停止するという予測と、それに対する緊急対策ではないかと思います)。

この意味において、不確かな未来のビジョンを描き出すことを試み、世間に働きかけ、将来をより良いものにしようと考える人々を、私は尊敬します。それは、カーツワイル氏をはじめとして楽観的・夢想的な未来像を提示する人、逆に『成長の限界』のような悲観的・破滅的なシナリオを提示する人、両方です。

けれども、未来予測を述べる人は、ある責任からは逃れられないと考えています。それは、「過去の未来予測を振り返り、その正しさに対する評価を受ける」という責任です。

未来予測の責任とは何か

今まで、私がシンギュラリティ論の未来予測を検証し妥当性を考察する間に、主にシンギュラリティの信奉者から次のような批判めいたコメントを受け取ることがありました。曰く、「あなたの予測が外れ、シンギュラリティ論 (あるいは収穫加速) が正しかった場合に、対策が遅れた責任を取れるのか」と。

この批判は意味が無いものです。なぜならば、誰であっても、いかなる予測を述べようとも「未来予測に対する (結果)責任」を取ることはできないからです。(そもそも、「責任」という言葉は極めて多様な意味を持つ多義語であり、ここではどんな意味で使われているのかあまり分かりません。) 先に紹介したジョン・レニー氏が指摘している通り、カーツワイル氏も、自身の非現実的なまでに楽観的な予測を信じて事業に失敗した起業家に対して責任を取れるわけではないでしょう。

唯一、未来予測に対する責任というものが存在するならば、それは未来の予測が過去となった時点で検証し、正解と誤りをつまびらかにして、予測発表時点で前提としていた事実と仮定と理論とを更新することにあるのではないかと思います。

「予言は、それが歴史になったときに注視せよ」(トーマス・ブラウン) 

 

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