カーツワイル氏がシンギュラリティを予測する根拠である「収穫加速の法則」ですが、彼はこの「法則」を複数の意味で使っており、非常に多義的で曖昧な、対象が定量的ではなく分かりづらい「法則」となっています。
そもそも、(シンギュラリティに関する議論においては非常にありがちですが)、シンギュラリタリアンの内部ですら「収穫加速の法則」という言葉の定義が異なっている場合すらあり、批判を受けた際に法則の定義を取り替えて反論していることもあります。
広義での「収穫加速の法則」は、テクノロジーや人類文明の進歩が指数関数的に進んでいくこと、と表されます。けれども、厳密な意味において、一体何の量が指数関数的な成長を遂げるのかはあまり明確ではありません。
『ポスト・ヒューマン誕生』における「収穫加速の法則」という言葉の意味を整理してみると、大きく4通りの意味で使われていることが分かります。 (以下のページ数は全て日本語版『ポスト・ヒューマン誕生』におけるページ数を表します。)
- 単独のテクノロジーの指数関数的な成長 (p.87)
- 拡張されたムーアの法則 (p.73)
- 「パラダイムシフト」が発生する時間間隔の指数関数的な減少 (p.31)
- 一定期間における「進歩量」の指数関数的な増大 (p.22)
まず、1は文章通りの意味であり、これについては既に議論しました。
次に、2の「拡張されたムーアの法則」ですが、これは前回のエントリでも取り上げた機械式計算機から集積回路に至るまでの計算力の指数関数的な加速を意味しています。5章で述べる通り、ムーアの法則自体は、コスト効率最大となるトランジスタ集積密度の増加について述べるものですが、カーツワイル氏は1000ドル当たりの計算速度の増加の意味で使用しています。また、カーツワイル氏は、集積回路に対するムーアの法則が今後も継続されると述べているわけではなく、集積回路の微細化が限界に達した後は新しいパラダイムが出現し、このグラフから予測される指数関数的成長が継続されると主張しています。
また、3と4の区別は非常に分かり辛いと考えるので、詳細に説明します。
3の意味における「収穫加速の法則」は、「パラダイム・シフト」が発生するまでの時間間隔が指数関数的に減少していくことを意味しています。たとえば、生命の誕生から真核生物の発生までには、約24億年を要しました。その後、ホモ・サピエンスの登場 (20〜30万年前) から農業文明の登場まで (現在から約5千年前)の期間、産業革命 (現在から約300年前) までの期間がどんどん短くなり、パソコンの発明からインターネットの発明までの期間は14年しか要していません。つまり、「パラダイム」間の時間間隔は短縮され続けている、という主張がなされています。
現在までの年数 | 次のパラダイムまでの年数 | パラダイム |
300,000 | 200,000 | ホモ・サピエンス |
100,000 | 75,000 | ホモ・サピエンス・サピエンス |
25,000 | 15,000 | 絵画、初期の都市 |
10,000 | 5,000 | 農業 |
5,000 | 2,490 | 文字・車輪 |
2,510 | 1,960 | 都市国家 |
550 | 325 | 印刷・実験的手法 |
225 | 95 | 産業革命 |
130 | 65 | 電話・電気・ラジオ |
65 | 38 | コンピュータ |
27 | 14 | パーソナル・コンピュータ |
表:カーツワイル氏の作成したグラフから一部を抜粋。
一方で、4の意味では、「パラダイム・シフトが起こる率が一定期間ごとに2倍になっている」という主張がなされています。
わたしのモデルを見れば、パラダイム・シフトが起こる率が10年ごとに2倍になっていることがわかる。(中略)20世紀の100年に達成されたことは、西暦2000年の進歩率に換算すると20年で達成されたことに相当する。この先、この西暦2000年の進歩率による20年分の進歩をたったの14年でなしとげ(2014年までに)、その次の20年分の進歩をほんの7年でやってのけることになる。別の言い方をすれば、21世紀では、100年分のテクノロジーの進歩を経験するのではなく、およそ2万年分の進歩をとげるのだ(これも今日の進歩率で計算する)。もしくは、20世紀で達成された分の1000倍の発展をとげるとも言える。
3と4の「収穫加速の法則」の意味の差異を図示すると、以下の通りに表現することができます。一見、同じことを述べているように見えますが、この2つは同値ではありません。端的に言えば、3は頻度について、4は産出量について述べているものです。
カーツワイル氏 (あるいはシンギュラリタリアン) は、この4つの意味での「収穫加速の法則」を複雑に使い分け、ある1つの意味における「収穫加速の法則」に対する批判に対して、別の意味での「収穫加速の法則」を持ち出して再反論し、議論をはぐらかしている場合がしばしば見受けられます。
一例を挙げると、未来学者セオドア・モディス氏が、1の意味での「単独のテクノロジーの指数関数的な成長」が起きていないことを示している論文に対する反論が挙げられます。モディス氏は、アメリカ合衆国の原油生産量、1つのマイクロプロセッサ内のトランジスタ数、世界人口、アメリカ合衆国のGDPなど、様々な成長曲線が指数関数ではなくS字曲線 (ロジスティック曲線) を取ることを示しています。
この批判に対するカーツワイル氏による再反論は、2の意味である「拡張ムーアの法則」や3、4の意味である文明論的な進歩を提示しており、「あらゆるテクノロジーが指数関数的に成長するわけではない」という批判に対する直接的な回答を提示していません*1。
他のシンギュラリタリアンも、3や4の意味における「収穫加速の法則」への批判に対して、2の「拡張ムーアの法則」を取り上げて反論している場合があります。けれども、4通りの「収穫加速の法則」はどれも意味が異なっており、互いに同値ではありません。ムーアの法則が成立しているとしても、なお3、4の意味での文明論的な「パラダイム・シフト」の加速は起きないと主張することは十分に可能です。
正直な印象を述べると、「収穫加速の法則」は「法則」と呼ばれているわりには曖昧であり定量的ではなく、法則を証明、または反証・反論をするためにどのような定量的なデータを提示すれば良いのかが明確ではない、と感じています。
つまりは、「収穫加速の法則」は「法則」の名に値しないということです。
なお、次回以降の私の議論においては、「収穫加速の法則」がいかなる意味で使われているのかを明記して議論を提示します。
*1:Amnon H. Eden, James H Moor, Johnny H. Soraker, and Eric Steinhart (2013) Singularity Hypotheses: A Scientific and Philosophical Assessment, P.311-348