シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

空飛ぶ不可視のティーポット

シンギュラリティに関する懐疑論を書いていると、しばしば「シンギュラリティが発生しないという証拠を示せ」「○○という技術が実現不可能であるという根拠を、あなたは挙げられないじゃないか」という反論を受け取ることがあります。

けれども、このような主張は論理的に誤っています。存在しない、あるいは不可能であることは証明できない以上、立証責任は懐疑派にではなく肯定派の側に存在するからです。

たとえば、罪を犯したことが疑われる人 (被告人) を裁判で有罪にするためには、被害者側に立つ人 (検察) が「有罪である証拠」を提出する義務があります。被告人あるいは弁護側の反論としては、「罪を犯していない証拠」を出す必要はなく、検察側が提出した証拠が不十分であると指摘するだけで良く、証拠が不十分であれば被告人は「推定無罪」の原則により無罪として扱われます。逆に、「無罪である証拠」を被告人が求められるのであれば、ほとんどの人が冤罪で処罰されてしまうでしょう*1

 

「存在しないという証拠を示せ」「不可能であることを証明してみせろ」そのような主張の論理的な誤りを皮肉した寓話が、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルの「天空のティーポット」です。

もし私が地球と火星の間には太陽を楕円軌道で周回するティーポットがあると主張したらどうでしょうか。このティーポットはどんなに強力な望遠鏡でさえ発見できないほど小さい、と用心深くつけ加えたならば、誰も私の言うことが誤りであると証明することはできないはずです。しかし私が続けて、反証できないのだから、人間の理性はそれをも疑いうるというのはあまりにも傲慢だと述べたならば、私はナンセンスなことを言っていると思われてしかるべきでしょう。

ラッセルのティーポット - Wikipedia

 

「そんなティーポットは存在しない」「いや、存在する。ただそれは見えないだけだ。疑うというなら証拠を出せ。」

もはや、この主張は誰にも反論できません。けれども、この論法を認めるのであれば、あらゆる反証不可能な主張を対等に扱い、等しく可能性があるものとして認めなければ、論理的には筋が通りません。

もしも、「懐疑的な主張をする者に立証責任がある」という主張を認めるのであれば、空飛ぶティーポットも先祖の霊も神もエササニ星人の存在も、この世界を支配する邪悪な爬虫類人の存在も、あるいは肩凝りの原因は悪霊であるという仮説も米のとぎ汁が放射能に効くという主張も、全て等しく認めて対等に扱わなければ論理的ではありません。(なぜならば、あなたはこれらの主張が全て誤っているという証拠を提出できないからです。)

自分の好きな仮説だけは認めるが、それ以外の論理的に同等の資格を持つ主張は無視するというのは、論理的一貫性を欠いています。


私はこれまで、シンギュラリティ論に関する懐疑論を述べる中で「カーツワイル氏 (あるいはシンギュラリタリアン) が信頼に足る証拠を挙げていない」ことを示してきましたし、今後も同様に主張するつもりです。懐疑的主張としては証拠の不備のみの指摘で十分であり、懐疑派に対して「存在しないことを立証する」ように求めることは、論理的に誤った主張です

余談

ラッセルのこの寓話は、無神論の立場から宗教的な神の存在に関して述べられたものです。けれども、神学的な観点から言えば、天空のティーポット論はナンセンスです。信仰者は、ティーポットなどという物体の存在を信じているわけではなく、時間と空間と論理を超越した創造主の存在を信じているのだからです。また、この寓話は、道徳規範や価値観など、科学的・実証的な手法では扱えない人間の信念について何も述べていません。
これは神学的には無意味な議論ですが、シンギュラリティ論について言えば「この世界において現実に起こることだ」という主張がされている以上、天空のティーポット論におけるラッセルの指摘が完全に当てはまります。

実のところ、私は創造主の存在を立証することは可能だと考えていますが、護教論はこのブログの主題ではないので止めておきます。

 

哲学入門 (ちくま学芸文庫)

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*1:ただ、日本の司法は、痴漢冤罪の報道などを見るに「推定有罪」の原則で運用されている疑いもあります