シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

エミュレーション、シミュレーション、モデリング

科学者は、物理現象を理解し説明するために「モデル」を作成します。あるいは、工学においては現象の予測や複雑な構造物の設計のために「シミュレーション」を行ないます。コンピュータを用いた数値シミュレーションは、既に科学や工学における確固たる手法として確立されており、数理的モデリングや数値シミュレーションそれ自体を扱う分野も存在しています。

モデリングやシミュレーションは極めて有用な方法であり、微視的な現象、応力、化学反応、天気予報や惑星の形成に至るまで、さまざまな数値シミュレーションが利用されています。現象を「理解・説明」あるいは「予測」するために、数理モデルを作ったり数値シミュレーションすることは、科学・工学の活動において当然の活動となっています。

けれども、モデリングやシミュレーションの意味や意義は大きく誤解されており、特に脳神経科学の分野ではそれが顕著です。そこで、シミュレーションの方法論を分類し、「脳のシミュレーション」と呼ばれ現在実践されている研究が、実際には何を行っているのかを解説したいと考えています。

シミュレーションの分類

まず、シミュレーションとは、「既知の事象や法則をもとにして、現実の現象(の一部)を模倣することによって、現象の本質を理解したり予測を行うこと」と定義されます。数値シミュレーションは、シミュレーションをコンピュータを使って行なうものです。

更に詳細に分類して考えると、工学における「シミュレーション」は、以下の3種類に分類できると私は考えています。

  • 再現 (エミュレーション)
    何らかの現象や人工物の動作を完全に再現するシミュレーション
  • 決定論的シミュレーション
    物理的な基礎方程式で表される現象を予測するシミュレーション
  • 非決定論的シミュレーション
    現実を捨象したモデルを使って現象を説明ないし予測するシミュレーション

まず、1件目の「何らかの現象を再現するシミュレーション」の具体例としては、古いアーケードゲームをPC上で動作させたり、オーケストラの生演奏やアナログレコードの音楽をCDやmp3プレーヤーで「再現」することなどが挙げられます。
実際のところ、工学的にはこれらの方法が「シミュレーション」と呼ばれることは多くありません。けれども、未来技術に関する話題で「脳のシミュレーション」が取り上げられる場合、あるいは「シミュレーション仮説」すなわち「この世界が何らかの高次の存在によるコンピュータシミュレーションである」という仮説において「シミュレーション」という言葉が使われるときには、この種の「完全な再現」が意味されていることが多いように感じています。

 

次に、2件目の「決定論的シミュレーション」は、対象となる現象を表現する基礎方程式が明示的に記述できる現象を解析するシミュレーションです。この種のシミュレーションの具体例としては、力学(構造・応力計算)、熱伝導、流体、回路や電磁波など、工学分野で対象となるほぼ全ての現象が含まれています。これらの基礎方程式は、対象物が単純である場合は解析的(数式で表される)解を得ることも可能です。これらの現象は決定論的な、つまり完全に予測が可能な現象であると言えます。
けれども、現象の基礎方程式が決定論的であっても、対象が複雑なシステムである場合には、解析的な解を得ることが不可能になります。製品設計などの実際の応用上においては、一般解が得られなくてもシステムとしての振る舞い(特殊解)が理解できれば十分である場合も多いです。そこで、差分法や有限要素法などの手法を用いて、方程式を数値的に計算する方法が取られることがありますが、この手法がシミュレーションと呼ばれています*1

 

最後に、3件目の「非決定論的シミュレーション」とは、現象を支配する原理が分からない場合や、個々の要素の相互作用は理解できていても要素全体がシステムとしてどのように振る舞うのかが分からない場合において、現象を理想化・抽象化したモデルを作成し、モデルを使って行なわれるシミュレーションです。具体例としては、景気変動や株価予測などの経済シミュレーション、あるいは生態学における捕食者と被捕食者の数量の関係を表したロトカ・ヴォルテラ方程式などが挙げられるでしょう。

脳のシミュレーションとは一体何を意味しているのか

前フリが長くなりましたが、ここからようやく「脳のシミュレーション」に関して検討します。

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式:ニューロンの活動電位変化をモデル化したホジキン・ハクスレー方程式。Cは膜容量、Kは膜電位、m,hはナトリウムチャネルの活性化変数、kはカリウムチャンネルの活性化変数を表す。

 

現在、生物の脳のニューロンを模倣して、神経細胞シナプス間の電気的信号の伝播を、既知の方程式 (ホジキン・ハクスレー方程式など) に基いて、大規模にシミュレーションするプロジェクトが実行されています。たとえば、「ブルーブレインプロジェクト」などが例として挙げられるでしょう。

確かに、ブルーブレインプロジェクトは計算神経科学的に非常に興味深い研究プロジェクトであることは間違いなく、特に生理学分野 (アルツハイマー病や統合失調症などの疾患の原因解明) においては、有用な知見が得られる可能性があることは否定しません。けれども、それは人間の脳のシミュレーションではなく、まして誰かの脳の再現ないしシミュレーションでもありません。

このエントリの最初で私が説明した「シミュレーション」の分類にもとづいて説明すれば、現在行なわれている「脳のシミュレーション」は、脳の再現 (エミュレーション) を目指したものではありません。また、私たちは脳の情報処理に関する動作の基礎方程式を得ているわけではないため、決定論的シミュレーションでもありません。2017年現在、脳の精神現象の「再現」を目標として掲げ、実際に実行されているプロジェクトは存在しません。

結局のところ、現在実践されている「脳のシミュレーション」は、脳の「再現」ではなく、モデルを用いて巨視的な振る舞いを抽象的に表現したものです。シナプスをモデル化するために使われる微分方程式のモデルでは、個々のシナプス毎に異なるパラメーターを持っており、そのパラメーターは時間経過やシナプスに処理された情報によって変化します。科学者が脳の根本的な動作原理を解明できない限り、これらのパラメーターは各々のシナプスを実験的に測定して求める必要があります。個々のパラメーターが理解できない限り、再現は到底不可能です。

 

ロトカ・ヴォルテラ方程式との比較

次に、モデル化と非決定論的シミュレーションが持つ意味を考えるため、生態学におけるロトカ・ヴォルテラ方程式と比較して説明します。

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式:ロトカ・ヴォルテラ方程式 (xは被捕食者、yは捕食者の数を表す)

ロトカ・ヴォルテラ方程式においては、各生物の地理的な分布、移動や生殖などの現象は捨象され、ある環境内の捕食者と被捕食者の量的関係だけが問題とされ、関係が微分方程式の形で表されます。このモデル方程式の解析から、たとえば捕食者と被捕食者の存在数が周期的な振動を繰り返すことや、「第一次大戦中に漁業操業が低下した際、サメなどの捕食者が増加した」という観測事実の因果関係に対する説明、すなわち、「無差別な殺生者の存在は、被捕食者側に有利に働き、その数量を増加させる」という知見を得ることができます。
この知見は、経験的事実からの帰納的推論のみによって断言できることではなく、モデルとシミュレーションを通して初めて理解できることであり、モデルを通した検討の有用性を示した事例と言えます。

ロトカ・ヴォルテラ方程式は、現実に存在するサメやシャチやらシャケやタラなどの海洋生物の捕食、生殖などの振る舞いを表したものではなく、現実世界を何らかの形で解釈した数学的構造です。
つまり、このモデルはそもそも現実世界の現象の「再現」を目的としたものではありませんし、現象を「再現」しなくとも有用な科学的知見を得ることは十分に可能です。けれども、ロトカ・ヴォルテラ方程式を詳細に数値シミュレーションすれば、魚が泳ぐ大海原が再現されると主張することは、バカげた主張であることは明らかでしょう。

けれども、「脳のシミュレーション」においては、これと似たバカげた考え方が堂々と主張されているように見えます。シナプスの1回の電位変化の中でさえ、放出される神経伝達物質の量を増減させることが可能であり、1種類のシナプスでさえ多数の記憶を貯蔵できることが明らかになっています*2が、シナプスの回路モデルでは神経伝達物質の働きは捨象されています。
また、そもそも、意識のハードプロブレム、脳の物質的な反応からいかにして主観的な意識現象が生じるのか、についてはほとんど理解が進んでいません。結局のところ、脳神経科学的にこの問題が解決されない限りは、脳の「モデル化」ができたとしても、モデルの正しさを確認することは不可能です。


脳の「再現」は可能か

最初に述べた通り、現在のところ私は物質的な脳の構造と機能から精神現象を説明できるという立場を取っています。けれども、どれほどの詳細さで脳を「モデル化」し「シミュレーション」すれば精神現象を再現できるのかは、今のところはまだ研究段階にあります。

人間の精神現象に関する考え方の一つとして、「流体のシミュレーションをどれほど詳細にしても何かが濡れているとは言えず、天気予報のシミュレーションをどれほど詳細に実行しても現実に風が吹いたり雨が降ったりするわけではないのと同様に、人間の脳をどれほど詳細にシミュレーションしたとしても意識や精神は生じないのだ」という主張もあります。可能性としては、何らかの分子や脳内物質の複雑な化学的相互作用が、意識と精神現象の発生に必要不可欠であるかもしれません。

けれども、本論では私は「精神現象は、脳内の何らかの情報処理プロセスとして記述できる」という仮説を採っています。つまり、主観的な意識も含めた精神現象を、脳の情報処理プロセスのアウトプットであると捉えるということであり、現象そのものを再現できなくても、システムとしてのアウトプットが「同一」であれば問題が無いと仮定します。

この立場からは、脳の物質的な構造や機能とは独立して精神現象や意識を存在させることができると考えられます。この立場から問題になるのは、精神現象や意識を発生させるために十分な解像度(詳細さ)で、脳の活動を再現することができるか否かとなります。

 

科学とモデル―シミュレーションの哲学 入門―

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生態学入門

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記憶のしくみ 上 (ブルーバックス)

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記憶のしくみ 下 (ブルーバックス)

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*1:工学において「シミュレーション」と言った場合、大抵の場合は決定論的シミュレーションを意味しているように思います

*2:クワイア、カンデル『記憶のしくみ 上』p.147