シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

脳の複雑さ:カーツワイル対PZマイヤーズ論争

脳の複雑性に対するカーツワイル氏の理解は非常に問題が多く、生物学者から批判を受けています。彼は、脳の複雑性を著しく過小評価しており、脳のリバースエンジニアリングと精神転送のために必要な研究の労力に対する見積もりは過少であると言えます。

まず、『ポスト・ヒューマン誕生』におけるカーツワイル氏の議論を引用します。

…脳の初期設計は、かなりコンパクトなヒトゲノムに基づいている。ゲノムの全体量は八億バイトだが、そのほとんどは反復に過ぎず、独自の情報を持っているのは三〇〇〇万から一億バイトだけで(圧縮後)、マイクロソフト・ワードのプログラムよりも少ない。公正を期すには、リボソームや多数の酵素などといったタンパク質の複製機構全体だけでなく、「エピジェネティック(後成的)」なデータ、すなわち遺伝形質の発現を制御するタンパク質に保存された情報を考慮に入れる必要もある。だが、こうした情報が付加されても、この計算値の桁数が大きく変わることはない。人間の脳の初期状態を特徴づけているのは、遺伝情報とエピジェネティック情報の半分強にすぎないのだ。
もちろん、脳の複雑さは、われわれが世界と関わり合うにつれ増大していく(ゲノムの約一〇億倍)。しかし、脳のどの特定の領域にも反復性の高いパターンが認められるため、個々の詳細を把握しなくても、関連するアルゴリズムリバースエンジニアリングをうまく行うことができる。(中略) 小脳の基本的な配線パターンは、ゲノムの中で記述されるのは一回だけだが、実際には何十億回も反復されている。*1

 

ここでカーツワイル氏が挙げている2つの論点、すなわち「ゲノムから見積もられる脳の複雑さは小さい」「脳自体に冗長性が存在するため詳細を把握する必要はない」という主張について、生物学者からの批判を紹介します。

 

ゲノムから脳の複雑さを見積もれるか

カーツワイル氏は「ヒトゲノム内で表現された脳の情報はごく少量であり、ゲノムから推測される脳の初期状態は比較的単純である」と主張しています。おそらく、ここで彼はコンピュータのハードウェアとソフトウェアを対比するように、脳の構造・機能とその中に含まれる情報 (記憶など) を区別しようと考えているのだと考えられます。
けれども、この考え方はポイントを外しており、「カーツワイル氏は脳の機能と発達過程を全く理解していない」と、ミネソタ・モリス大学の分子生物学者PZマイヤーズ氏は批判しています。人間の脳の発達過程を見れば「世界と関わり合う以前の初期状態」と呼びうる状態は存在しないからです。

ここで使われた「脳の初期状態」という言葉で何を意図しているのか、カーツワイル氏は明らかにしていません。けれども、ジョン・ロックが「空白の石版タブラ・ラーサ」と呼び、ウィリアム・ジェームズが「途方もないざわめく混乱」と呼んだ赤子の脳にも、既にきわめて複雑な機能が存在していることが明らかになっています。そのことは、子供を持ち育てた経験のある人であれば十分に理解できるだろうと思います。たとえば、近年の児童心理学の実験から、生後数日の新生児にすら、母親とそれ以外の人の顔を認識し識別する能力が備わっていることが示されています*2*3

そして、胎児の脳の発達過程は環境との相互作用に完全に依存しており、「世界と関わり合う前」の状態を考えることはできません。確かにゲノムは、脳の「設計」における一連のプロセスを提供しています。けれども、そのプログラムは脳自身の内部の相互作用と、身体も含めた外部環境からの入力に依存しています。脳の発達のプロセスは、何らかの入力からのフィードバックに依存して発現する遺伝的ルールの組み合わせであり、膨大な複雑さと情報を脳へと追加するものです。

カーツワイル氏は、脳の発達過程を理解しておらず、ゲノムの情報が脳の複雑さを制限する程度を過大評価しているか、発達過程における情報の増加を過少評価していると言えます。すなわち、カーツワイル氏の主張する「脳はそれほど複雑ではない。なぜならば、ゲノムに含まれた情報が複雑ではないからだ」という主張は誤りです。

ただし、適切な条件が与えられれば、ゲノムから脳の発達過程を再現して人工的に新しい脳を創り出すことは可能であるかもしれません。非常に困難な問題ですが、けれども、可能性の問題としては完全にありえないと言い切ることはできません。けれども、最終的にカーツワイル氏が目指しているのは、脳の作り直しではなく、脳のリバースエンジニアリングと精神転送です。この目的のためには、ゲノムから得られる情報が少ないという事実はあまり意味を持っていません。

もちろん、カーツワイル氏も、ヒトゲノムのみから脳をリバースエンジニアリングできると主張しているわけではありません。人の脳を再現するためには、やはり人の脳それ自体を観察し調査する必要があり、それはカーツワイル氏も認めています。

脳は冗長か

そこで、次の主張である「脳には冗長性が存在するため、個々の詳細を把握せずともリバースエンジニアリングが可能である」という主張を検討します。ここでもやはり、カーツワイル氏は誤った仮定のもとに脳の複雑性を大きく過小評価しています。

確かに、脳の構造に反復が存在することは事実です。けれども、それらは単なる複製ではありません。単に1つのモジュールを記述し、それを繰り返すことで脳の構造と機能を表現することは不可能です。それぞれの繰り返しにおいて、脳内の他の領域と身体からのフィードバックを通して、新たな、意味を持ったパターンが形成されます。そのパターンがいかなる意味を持っているのかを解明できない限り、単純な冗長構造であるとは想定できません。

また、ニューロンの相互接続パターンの複雑さの程度は、脳領域ごとに異なる可能性があることも考慮する必要があります。たとえば、カーツワイル氏は小脳 (身体の運動を司る領域) の構造の解明とリバースエンジニアリングが進んでいることを、著書の中で例として挙げています*4。小脳の構造は比較的均一性があり、パターンはシンプルで繰り返されているため、リバースエンジニアリングは比較的進んでいます。けれども、これが脳の他の領域や機能についても適用できるという確証はありません。

人間の脳における最も複雑で抽象的な思考、判断、計算や計画を司る脳領域である大脳新皮質に眼を向けると、機能が容易に推測できる単純なニューロンの繰り返しパターンは存在していません。更には、ニューロンの結合がどのように言葉の意味や概念と対応しているか、音声言語と文字がどう対応づけられるか、概念と概念の関係はいかに表現されるか、あるいは特定の言葉が引き出す情動とどう対応しているかについて、今のところ神経科学者はほとんど理解できていないと言えます。そして、個々の詳細を把握し対応する精神活動を明かにできない限り、どの領域をどの程度まで捨象しても問題が無いかを断言することは不可能です。

更には、これらの問題がどれほど複雑であるか、何が分かっていないのか、ゴールがどこにあるのかについて、私たちはまだ確証を持てていません。今後研究が進むにつれて、現在の私たちがまだ発見できていない新たな複雑性のレイヤーに衝突する可能性は十分にあります。それゆえ、現在の時点では、脳の原理の解明までにまだどれだけの研究と時間が必要であるかを断定することはできません。

まとめ

カーツワイル氏の脳の複雑性に関する議論は、脳の発達と構造に関する著しい無理解を示しており、彼は脳のリバースエンジニアリングに必要なコストを過小評価していると考えられます。
けれども、公平のために述べておくと、カーツワイル氏はゲノムから脳を再現できるとは述べていませんし、また、脳の構造を解明するために脳を詳細に観察する必要があるとも認識しています。

そこで、次回のエントリでは、脳をスキャンするための技術について、現状と技術開発の展望を議論したいと考えています。

参考サイト

Ray Kurzweil does not understand the brain – Pharyngula

Ray Kurzweil responds to “Ray Kurzweil does not understand the brain” | KurzweilAI

Kurzweil still doesn’t understand the brain – Pharyngula

 NeuroLogica Blog » Kurzweil vs Myer on Brain Complexity