シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

コネクトーム:脳の中をのぞきこむ?

前回のエントリでは、カーツワイル氏の脳に対する理解が誤っており、脳の複雑さに対する推定が過少であるという生物学者からの指摘を紹介しました。

けれども、公平のため述べておくと、カーツワイル氏も脳を再現するためには脳自体を観察する必要があることを認識しており、そのための手法についても述べています。そこで、今回は脳を観察するための手法と、脳の「配線図」の解明について検討します。

脳の機能の研究と精神転送のためにまず必要となるのは、脳の「配線図」すなわち神経科学者が「コネクトーム」と呼ぶ、ニューロンや領野間の接続状態を明らかにすることです。次回述べようと思いますが、コネクトームの解明は人間の精神現象の理解と精神転送の十分条件ではありません。けれども、コネクトームの解明が人間の脳と精神活動の解明のために必要となる一つのステップであることは間違いありません。

ヒトコネクトーム

人間の脳はおよそ100億個のニューロンを持っています。それぞれのニューロンが軸索や樹状突起を通して、他の100〜1000個のニューロンと接続されています。これらのパターンが、脳の接続図すなわちコネクトームとして表されるものです。

現在のところ、最も詳細に脳を観察するためには、電子顕微鏡を必要とします。また、その場合には、脳を薄い切片にスライスする必要があります。つまり、電子顕微鏡で観察できるのは死んだ脳だけです。

もちろん、非侵襲的な脳スキャン技術、つまり生体の脳を観察する手段も開発されています。たとえば、機能的電磁共鳴画像装置 (fMRI)や脳磁図 (MEG) などがあります。けれども、非侵襲的脳スキャン技術はカーツワイル氏の予測する通りの指数関数的な成長を見せておらず、ナノメートル単位の測定は不可能であり、せいぜい0.1ミリメートル単位の空間解像度しか持っていません。
これらの非侵襲的手法の時間・空間解像度が今後どれほど改善できるかは未知数です。けれども、脳を損傷しない範囲で観察しようとする限りは限界が存在します。たとえば、fMRIの空間解像度は、ある領域の磁場勾配に依存しています。どれだけの人体がどれだけ強い磁場に耐えられるかは不明ですが、いくらでも強くしても影響が無いということは考えられず、物理的な限界が存在します。

おそらく、カーツワイル氏ら精神転送の提唱者たちも、ここで挙げた難点を十分に理解していることでしょう。それゆえ、カーツワイル氏はナノロボットを使用した脳の内部からのスキャンを提唱しています。ナノテクノロジーについては次章で取り上げますが、ナノテクノロジーはカーツワイル氏の予想する通りの指数関数的成長を見せていません。ナノテクノロジーの完全な普及と脳スキャンの実現は2025年(8年後!) までに可能であると予測されていますが、その時期になっても脳構造の完全なスキャンが完了していない可能性はかなり高いと考えています。

 

f:id:liaoyuan:20090516161704j:plain

図:カエノラブディティス・エレガンス (C.エレガンス)。培養が容易で、身体が透明であるため観察が容易であり、比較的単純な構造ではあるものの神経系を持つため、遺伝子工学神経科学におけるモデル生物として利用されている。写真はWikimedia Commonsより。

これまでのところ、科学者が神経系全体のコネクトームをマッピングできた生物は、ただ1種類、すなわち、C.エレガンスと呼ばれる線虫に限られています。C.エレガンスのニューロンは約300個、シナプスは約6000個程度であり、遺伝子によって完全にコネクトームの形状が指定され個体差が存在しないため、詳細な接続状態の把握が可能だったのです。けれども、今のところは静的な構造が把握できたのみであり、動的な処理までは解明されていません。電気回路のメタファーを用いれば、部品表と結線図は存在していても、各々の部品の動作仕様や回路上の信号はまだ理解できていないということです。


ただし、ヒトコネクトームの解明は、難しい問題ではあるものの、まだ人類の手に負える問題ではあります。シェフィールド大学教授であるリチャード・ジョーンズ氏は数十年程度のタイムスパンのうちに、プリンストン大学神経科学者であるセバスチャン・スン氏は今世紀以内に、ヒトコネクトームのマッピングが完了すると予測しています。ただし、最初の段階では、生体の脳ではなく死亡直後の人の脳しかマッピングできない可能性が高く、生きた人の脳を観察する手段の開発は更に時間を要すると考えられます。なお、ヒトコネクトームの問題は線形な問題ではないため、今後指数関数的に進捗していくと信じる理由はありません。

期間についての問題はさておき、人類はいずれヒトのコネクトームを明らかにできるだろうと考えています。それでは、コネクトームが明らかになったとして、そのモデルを用いてシミュレーションすれば、知能と意識がコンピュータ上に再現されるのでしょうか。私は、それは疑わしいと考えています。

 

なぜならば、生命の情報処理の基本原理は、ニューロンシナプスの反応ではなく、分子レベルの相互作用であるからです。

次回のエントリでは、分子レベルの相互作用が、生命の情報処理の理解のために必要不可欠であることを述べたいと考えています。

追記

この記事に対して指摘がありましたので補足のエントリを書きました。

 

コネクトーム:脳の配線はどのように「わたし」をつくり出すのか

コネクトーム:脳の配線はどのように「わたし」をつくり出すのか