シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

生物の情報処理の原理は分子の相互作用である

生物の情報処理において、何らかの統一的な基礎原理が存在するとすれば、それは分子の相互作用であると言えます。すなわち、生体内の分子同士と外部の環境に存在する分子が相互に作用し合い、巨視的な行動や記憶の保持を担っているのです。実際に、分子レベルの情報処理こそが、脳どころか神経細胞すら持たない単細胞生物ですら記憶や知能のある振る舞いを見せる理由です。また、生体の分子が論理回路として働きうる可能性を示す研究が存在しています。

分子が生物の情報処理を担っていると仮定した場合、分子レベルで脳の動作を再現するハードウェアの実現も、シミュレーションに必要な初期状態の取得も、どちらも今生きている私たちの寿命のタイムスパンで実現可能だとは考えにくいと言えます。

シナプスにおける記憶の保持

生物の記憶がどこに存在するかについて、神経学者の間ではおおむねコンセンサスが得られています。すなわち、神経細胞 (ニューロン) の間の結合であるシナプス、またはシナプスの集合です。アメフラシなど、比較的単純でありながら哺乳類と似た構造の神経細胞を持つ生物に対する実験から、記憶とシナプス間結合の間の関連が解明されています。

けれども、これはニューロンシナプスの形状だけを解明すれば、人間の脳機能や記憶、精神のメカニズムが理解できるということを意味していません。ニューロンシナプスの活動は電気回路に例えられることがありますが、実際のところ、その機構には分子レベルの相互作用が働いているからです。

生物体内の細胞表面にある細胞膜において、タンパク質の分子は細胞膜の電位変化に反応してその形状を変化させます。細胞膜においてイオンを細胞内外でやり取りするイオンチャネルでは、細孔と呼ばれる小さな穴を閉じたり開いたりすることで、イオン (原子) を選択的に透過させます。シナプスの電位変化 (発火) でも、このような反応が起こり神経伝達物質を放出、受容しています。

また、シナプスのレベルでは、たとえばグルタミン酸のような神経伝達物質シナプス神経細胞 (情報を伝える側のシナプスの細胞) から放出されると、シナプス神経細胞の受容体の分子は神経伝達物質の分子を認識して結合します。この結合の結果、受容体の分子は立体構造の変化を起こし、イオンをシナプス後細胞へ流入させます。細胞へのイオンの流入シナプス電位を発生させ、受容体とイオンの種類に依存して神経細胞を興奮または抑制します。

これらの機構の一件一件において、神経細胞を構成する分子が情報処理における役割を担っていると考えられています。ニューロンシナプスの発火 (のみ) によって情報や記憶が処理されているわけではありません。


そして、分子による情報処理とシナプスによる情報処理は、必ずしも矛盾するものではなく、1つの現象を別の観点から捉えた両立しうる仮説であると言えます。神経科学者の塚原仲晃氏は著書の中でこう述べています。*1

記憶の分子説とシナプス説との論争は、かつての光の粒子説と波動説に似た情況にあるといえようか。…シナプスとは脳における物質=分子の存在様式であり、これがその物質=分子と切り離しては考えられないからである。…ただ、この二つの説は、いまだ統一的に説明されるレベルにまで到達していない。統一されるためには、それぞれの立場での問題点が浮き彫りにされなければならないからである。*2

つまり、神経細胞シナプスの単位での現象も、微視的には分子の現象として説明できるということです。また、分子レベルの動作説明が、精神現象の解明のために不可欠となります。

脳を研究する上で分離できるいくつかの階層がある。それぞれの階層には、基本的素子が存在していて、神経細胞やそのシナプスは一つの基本的な階層であり、また蛋白質核酸といった分子はその下の階層での構成要素である。ことの順番からいえば、記憶が神経細胞のレベルで明らかにならないで、分子のレベルで明らかになることはありえないのであって、ひとまず神経細胞のレベルで把握された上で、その分子的機序が明らかにされたとき、はじめて光の粒子説と波動説とが統一されたような形で終結するのではあるまいかと考えられるのである。*3

つまりは、まず神経細胞シナプスのレベルでの記憶や認知の機構が明らかにならない限り、分子レベルの動作を捨象して脳を再現できるのか不明であるということです。

単細胞生物と人間の記憶

分子レベルの情報処理が、生物の情報処理における基本原理であるという1つの証拠は、アメーバやゾウリムシといった単細胞生物ですら、記憶や知能が存在すると想定できる振る舞いを示すことです。

単細胞生物も、食物の捕食、有害な物質や外敵からの逃避行動など、周囲の環境に応じた目的を持ったとみられる行動を取ることができます。また、ゾウリムシに対する実験から、古典的条件付け記憶の存在が示されています。つまり、ゾウリムシに特定の周波数の音 (振動) を与えた後に軽い電気ショックを与えると、その周波数の音を聞いただけで逃避行動を取るという事例が示されています*4

確かに、人間をはじめとする多細胞生物は、多数の細胞からなる分業体制を取っており、情報処理に特化した細胞、ニューロンが存在しています。けれども、進化論の観点から考えると、人間は過去の遠い祖先たちが使用していた分子による情報処理の形跡を身体内に留めていると言えます。

ノーベル賞受賞者である神経科学者、エリック・カンデル氏は、短期記憶の形成がシナプスに与える影響の分子機構を論じて、次のように述べています。用語の補足をしておくと、セカンドメッセンジャー系とは細胞内の情報伝達を担う経路であり、cAMPとは、そこで利用される環状アデノシン一リン酸という分子を指しています。

学習をしているときに放出される修飾性神経伝達物質は、その学習の鍵となっているニューロン内のセカンドメッセンジャー・シグナル伝達経路を活性化し、その活性を数分間持続させる。cAMPを動員することによって、セカンドメッセンジャー経路は伝達物質の作用をさらに増幅し、…イオンチャネルおよび伝達物質放出の分子装置を修飾する。…後で見るように、異なる学習仮定は異なるセカンドメッセンジャー系を動員するが、短期記憶に関与する主要な分子的原理はほぼ同じしくみになっている。

…これらの発見は、哲学的な暗示を含む。このcAMP経路は、記憶の貯蔵にとって特別なもので、神経細胞だけに特化しているのではなく、身体その他多くの細胞、たとえば腸、腎臓、肝臓などの細胞にも長期的な作用を引き起こすために使われている。事実、セカンドメッセンジャー系のうちで、cAMP系はおそらくもっとも原始的であり、進化の歴史の過程で保存されてきたものである。それは、細胞のような原始的な単細胞生物に存在する唯一のセカンドメッセンジャー系であり、そこでは飢餓を伝えるシステムとして働いている。したがって、脳の記憶貯蔵機構は、ある特化した分子群を創造するために進化してきたわけではなく、また記憶のためだけの特別のセカンドメッセンジャー系を使っているわけでもない。むしろ脳は、他の細胞で別の目的に使われている効率的なシグナル伝達系を記憶のために選び出しているのである。[強調引用者] *5 

やや専門的で分かりづらいですが、ここで述べられているのは神経細胞内の情報伝達において分子のメッセージが用いられているということ、そして、人間の脳細胞でも同じメカニズムが使われているということです。

繰り返しになりますが、そもそも現状ではシナプスレベルの情報処理機構すら解明されていない状況です。そのため、人間の記憶や情報処理のメカニズムについて断定的なことは言えませんが、単細胞生物と共通した分子レベルの情報処理を行なっている可能性は否定できません。

生体内の分子論理回路

そして、事実、生体内の分子が論理回路となりうるということが示されています。マサチューセッツ工科大学の名誉教授であるデニス・ブレイ氏は、1995年に発表した論文の中で、タンパク質の分子がアロステリックな効果を用いることで、論理回路として動作できることを示しています*6。アロステリック効果とは、特殊な化合物などの制御物質によって、タンパク質の酵素としての機能が変化する効果を指しています。

このタンパク質論理回路における入力は、ある種の化合物の分子です。そして、出力は、タンパク質が酵素として働くことで生成された、別の化合物です。出力の化合物が、更に別のタンパク質論理回路に入力され、論理回路が複数組み合せられることによって、複雑な演算を行う計算回路を構成することが可能になります。

タンパク質回路に対する初期入力は環境中の分子です。また、最終的には、鞭毛や筋肉(の分子)を動作させることによって、食料へ向かったり有害な毒物や外敵から逃げるなどの巨視的な行動を出力します。

そして、カーツワイル氏も (別の文脈で) 分子やDNAでコンピューティングができる可能性があるということを認めています*7。彼が分子コンピューティングを取り上げているのは、新しい高速なコンピュータを作る手段としてですが、そもそも生体内でもこのような反応が起こっている可能性は否定できません。

精神転送ふたたび

「生物の情報処理の原理は分子である」ということが事実であるならば、精神転送の実現可能性に関して2つの難点が存在すると言えます。すなわち、脳を再現するハードウェアの規模と計算量が莫大になること、および、シミュレーションを開始するための初期状態の把握がほぼ不可能であることです。


確かに、カーツワイル氏は著書の中で、ある種のタンパク質が記憶を担っている可能性があることに言及しており*8、人間の人格のアップロードのためには特定の脳領域を分子レベルで観測する必要があることも認めています。けれども、この連載の前のエントリで述べた通り、カーツワイル氏が脳のエミュレーションと精神転送に必要な計算量を見積もる際の推定では、ニューロンの数とその相互接続 (シナプス) の数のみしか考慮されていませんでした。
分子の相互作用を考慮に入れた場合、カーツワイル氏の推定は、1〜2桁どころではなくアヴォガドロ定数 (=10^23) オーダーの誤差が生じます。トランスヒューマニストであるニック・ボストロム氏とアンダース・サンドバーグ氏も試算している通り、拡張ムーアの法則にもとづいた計算力のコスト効率向上が今後も継続されると仮定したとしても、シミュレーションに必要な計算力を得るためには、更に1世紀から2世紀程度の時間が必要になります。

スイスの連邦工科大学ローザンヌ校の教授であり、ブルーブレインプロジェクトの主任責任者であるヘンリー・マークラム氏は次のように述べています。

それ[脳の再現]は不可能と思われるし、必要でもない。脳の中ではそれぞれの分子が強力なコンピュータであり、それを正確にシミュレートするには、膨大な数の分子と分子間の相互作用をシミュレートする必要があり、非常に困難だ。おそらく現存するコンピュータより遥かに強力なものが必要となるだろう。

そして、精神転送の障害となるのは計算力の問題だけではありません。そもそも、シミュレーションを開始するために必要な初期状態の情報を得ることが困難です。その情報を得るためには、脳の中の(少なくとも)いくらかの分子について、その位置と速度を測定しなければなりません。カーツワイル氏が提唱するような脳内に侵入できるナノロボットが存在したと仮定してさえ、そもそも必要な情報が集められるのか、妥当な時間内で情報収集が完了するのかも不明です。たとえば、あまりに情報収集に時間を要する場合、再現された人の記憶に不整合が発生する可能性も否定できません。

計測技術の一般論として、時間/空間分解能と計測の範囲はトレードオフの関係にあります。つまり、小さな物を計測しようとする場合、一般には狭い範囲しか観測できません。脳全体を詳細に観察するために、どれほどのナノロボットを脳内に侵入させれば良いのか分かりません。また、ナノロボットの動作に必要なエネルギーをどこから供給できるのかも不明です。情報を読み取り、記憶し通信するためのプローブやメモリやアンテナをナノロボットに実装する方法も、現在のところ現実的な方法は提案されていません。更には、計測のために脳血管内にナノロボットを留まらせる場合、故障により脳塞栓を起こす可能性もあります。それ以外にも技術的な難点はいくらでも挙げられるでしょう。

 

精神転送の提唱者がニューロンシナプスのコネクトームに対してのみ注目している状況を見ると、私は「街灯の下で鍵を探す」という古くからあるジョークを連想します。つまり、分子レベルでの脳の機構解明と初期状態の取得という問題に比べれば、コネクトームの解明はまだ人間の手に負える規模の課題であるがゆえに、その問題にだけ注力しているように見えます。

さて、カーツワイル氏は、ここで挙げた議論に対する反論を一応用意しています。曰く、脳には階層性が存在するために、高位のレイヤーの情報処理が理解できればよく、分子レベルの脳構造を解明する必要はない、と主張しています。

そこで、次回のエントリでは「脳の階層性」について検討します。

余談

私は、ロジャー・ペンローズの量子脳仮説の立場、つまり意識の起源が何らかの量子性に由来する、という立場を取っていません。理由は2つあります。

まず1つ目の理由は、そもそも生体の脳内という常温、湿潤な環境下において、量子力学的な性質が巨視的な現象に影響を与えるとは想定しがたいことです。一般的に、マクロスケールで量子効果を発現させるためには、絶対零度に近い極低温にまで冷却する必要があります。

2つ目の理由は、仮に脳内の物理現象において何らかの非決定論的、統計的なランダム性が存在すると仮定しても、そのランダム性と「意識」や「自由意志」と呼ばれる何かとの関連が不明であるからです。ダニエル・デネットがどこかで論じていたように記憶しているのですが、チック症やハンチントン病など、身体が不随意に動作するような疾患を考えると、偶然性は「自由」とは程遠いものであるからです。

脳の可塑性と記憶 (岩波現代文庫)

脳の可塑性と記憶 (岩波現代文庫)

動物は何を考えているのか?:学習と記憶の比較生物学 (動物の多様な生き方 4)

動物は何を考えているのか?:学習と記憶の比較生物学 (動物の多様な生き方 4)

記憶のしくみ 上 (ブルーバックス)

記憶のしくみ 上 (ブルーバックス)

記憶のしくみ 下 (ブルーバックス)

記憶のしくみ 下 (ブルーバックス)

*1:実は、著者は御巣鷹山日航機墜落事故で亡くなっており、この本は約30年前に絶筆状態となっていますが、現在でもあまり内容が古びていないことに驚かされます。

*2:塚原仲晃『脳の可塑性と記憶』p.101

*3:同上 p.102

*4:日本比較生理生化学会 『動物は何を考えているのか?』

*5:クワイア、カンデル『記憶のしくみ 上』 p.147-150

*6:Protein molecules as computational elements in living cells - PubMed

*7:『ポスト・ヒューマン誕生』p.118-123

*8:『ポスト・ヒューマン誕生』p.209