ここまで、精神転送について計算機科学と脳神経科学の両面からその実現可能性を検討してきました。私は、この2つの分野においてとてつもないイノベーションが発生しなければ、そもそも精神転送に必要な前提条件を満たすことさえ不可能であると考えています。何ら実証的な根拠を持たない「収穫加速の法則」による科学の進歩を前提としてさえ、必要な技術を人類が手に入れるまでにはなお数世紀以上の時間を要することでしょう。
けれども、これまでに挙げた問題はあくまで技術的・科学的な問題です。私は技術者であり、技術的・科学的な問題はいずれ解決しうるだろうと考えています。(タイムスパンの問題は存在しますが) 遠い将来において、人類は精神転送の実現のために必要な計算機と脳神経科学の知見を得ることができる、かもしれません。
さて、サイエンス・フィクションのギミックや心の哲学の思考実験として精神転送が取り上げられる場合、「仮に精神転送が可能になったらどういったことが起こるか」という検討がされることが多いようです。たとえば、精神転送は「転送」なのか「複製」なのかという問題があります。つまり、私の分身ができたとしても、なお現在の「私」はやはり変わらず存在しつづけるのではないか、という問題です。おそらく、この種の問題に関心のある人であれば、一度は聞いたことがあると思いますのでここでは取り上げません。
けれども、現実の人間を対象とする医療処置として精神転送を捉えようとすれば、「精神転送が可能になるまでにどういった問題が起こるか」という点を考慮する必要があります。
そこで、実際に人間を対象として精神転送を実行するという段階になったとき、ある巨大な認識論的な
一見すると、精神転送の成功判定は大した問題ではないように考えられるかもしれません。未来技術において、脳をエミュレーションするハードウェアがどのようなものであるかは分かりませんが、おそらく人体の脳とは全く異なる原理で動作している可能性は非常に高いでしょう。それゆえ、単純にコピーしたファイルの差分を取るようにして成功と失敗を判定することはできません。
カーツワイル氏は、転送された人間を対象とするチューリングテストを実施しさえすれば良い、と主張しています。
アップロードに無事成功したかどうかの確認は、「レイ・カーツワイル」版や「ジェーン・スミス」版のチューリングテストといった形をとるだろう。すなわち、アップロードされた再創造物が、もとの特定の人物と見分けがつかないかどうかを、人間の審査員に納得させるのだ。それまでに、いろいろな形のチューリングテストのルールを定めるにあたって、複雑な事態に幾度か直面するだろう。…
カーツワイル氏が『ポスト・ヒューマン誕生』の中で挙げているアップロードの成功判定方法は、ここで挙げたチューリングテストのみです。他人の眼から見て区別がつかないような成功なコピーを作ることが目的であれば、外部の視点からのチューリングテストのようなテストだけでも問題はないかもしれません。けれども、精神転送を通して「この<私>」の自我を人工物の上に転送ないし複製して、永遠の生命を得ることが目的なのであれば、それだけでは不十分です。内的・主観的な意識体験を対象とした検証が必要となると考えられますが、カーツワイル氏は特にこれに注目していません。(8/17追記)
つまり、ここには暗黙の、けれども、とてつもなく巨大で非自明な仮定が含まれているように見えます。つまり、人間は自分自身が正常であるか異常であるかを判定でき、対象者自身は精神転送の成功と失敗を判断できる、という仮定です。けれども、臨床的な観点からはこれは誤りであると言えます。人間は、自身の精神状態が異常であっても感知できないことがあるからです。
統合失調症の患者が、ある種の劇的な妄想 -自分の思考が読み取られている、外部から思考を操作されている、周囲の人間が自分を監視している- を主張しながら、なお「自分は病気ではない」と主張する(病識の欠如)ことはよく知られています。実際、97%の統合失調症患者に病識の欠如が見られると報告されています*1。
それ以外にも、脳に損傷を受けたり認知症により記憶が失なわれた患者が、欠如した記憶をでっち上げたり、脳卒中患者が身体の麻痺を認めず、自分の身体が動かない理由について突飛な説明をひねり出すという事例もあります。私自身も、パニック障害とうつ病の既往歴がありますが、当時は確かに自身の精神状態を客観的に見る機能が失なわれていたと感じています。
実際のところ、精神転送の過程において、対象者に脳損傷や精神疾患と同様の状態が発生する可能性は否定できません。
そして、認知科学において「コンシャスアクセス」と呼ばれる人間が意識できる対象、つまり、自身の記憶、認知や身体機能に対して主観的に対象化できる範囲は、ごく限られたものであることが知られています。コンピュータのたとえを使えば、ハードディスクには膨大な記録データがあり、多数のバックグラウンドプロセスが動作していても、フォアグラウンドウィンドウ -マウスやキーボードからの入力を受け付け、ディスプレイに情報を出力する画面最前面に表示されたウィンドウ- は、ある一時点ではただ一件でしかないということと似ています。人間の精神活動においても、大部分の処理は無意識下で処理され、意識に登る対象はごく限られたものでしかありません。
つまりは、実際のところ、人間の精神活動のほとんどの部分は意識に登る対象ではなく、意識的な認識の対象となるものであっても正常性を認識できるかは不明です。端的に言えば、精神転送の成否について、対象者当人の自己申告を信じることはできないということです。
哲学的ゾンビ
精神転送の成否判定について考える上で大きな問題となるのは、私たちは他人の感覚や意識を直接観測することはできないという点です。
たとえ、コンピュータ上へ転送をされた人(?)が「自分は正常である」と主張し、他人と記憶を照合するテストでも問題が発生せず、神経科学的に正常動作をしていると確認できたとしても、なおその人物が内的な意識体験を一切欠いた哲学的ゾンビであるという可能性は残ります。転送された精神が哲学的ゾンビではない、ということを証明する方法はありません。主観的な意識体験、哲学者の永井均氏が「独在性」と呼ぶこの<私>が、どうすれば客観的に測定し検証できるのか、皆目検討が付かないからです。
唯一の検証方法は実際に精神転送を受けてみることですが、上記の通り、対象者本人ですら自分が正常であることを確信することはできません。
カーツワイル氏は、意識の存在を (客観的には) 実証できないという立場を取っているようで、確かにそれは論理的に一貫した一つの立場であると言えます。けれども、精神転送を生身の人間を対象とした医療処置と考えたとき、成功も失敗も判定できない処置が認可される可能性はごく低いのではないかと考えざるをえません。
結局のところ、精神転送を可能にする計算機のハードウェアが実現し、脳神経科学の知見が進んだとしても、操作的な成功判定手順が存在しえないという問題は解決不可能ではないかと考えています。
この項続きます。
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