シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

シリコン製の天国と来世

ここまで、精神転送の実現可能性について計算機科学と脳神経科学の観点から検討してきました。

再度、私の結論を繰り返すと「原理的には精神転送は不可能ではないにせよ、カーツワイル氏やシンギュラリタリアンの議論においては、その実現の困難さが相当に低く見積もられており、今生きている私たちの寿命のタイムスパンで実現される可能性は相当に低い」と考えています。


実際のところ、精神転送は現在の計算神経科学においてメインストリームの研究テーマではありませんし、多くの人も「数十年以内に脳をコンピュータにアップロードできるようになる」という主張は、ありえないレベルで馬鹿馬鹿しい主張だと一笑に付すでしょう。

けれども、ここで私が精神転送を強く批判したのには理由があります。精神転送は、宗教の持つ力が弱まった現代において、来世と永遠の生命のイメージを強く喚起するものであるからです。

 

キリスト教徒が千年王国を夢想し、仏教徒が解脱と涅槃を求め、グノーシス主義者が高次の光の叡智を望んだように、シンギュラリティ教とトランスヒューマニズム教においては、精神転送が来世と永遠の生命のイメージをもたらす代替物となっているように見えます。

残念なことに、間違った信仰を持ち、誤った来世に関するイメージを抱いたがために、悲劇的な事件を起こした宗教団体は現代社会においてすら枚挙に暇がありません。もちろん、シンギュラリタリアンが電車でサリンを撒いたり、彗星に導かれ高次の次元において生まれ変わるために集団自殺をするということは考えにくいことです。

けれども、そこまで劇的なものでなくても、来世と永遠の生命の強烈なイメージは、現実の科学技術の研究開発と人間の霊的な側面の双方に対して、やはり悪影響をもたらす可能性があるものであると言えます。

 

まず、そもそも精神転送に関する技術の実現可能性は、人間の不死を求める感情によって、非常に過大評価されているように見えます。この技術が実現されると予測される時期が、予測者の誕生年からおよそ100年以内、つまり、ちょうど当人が寿命を迎える直前に実現すると主張されることが多いという観察は、何ら目新しいものではなく、「マース=ガロー効果」という名前さえ付けられています。

 

そして、科学研究と技術開発の現実的な側面に対する影響に関して言えば、この強烈な感情的な力が、科学技術に対する研究資金、投資や政策の割り当てを歪ませる危険が存在します。

もちろん、計算神経科学や脳神経科学が興味深いテーマであり、研究に値するものであることは間違いありません。(私自身もオプトジェネティクスの発想とそれを可能にした手法には、素直な感動を覚えます。) 計算神経科学を真剣に研究し、直接的には精神転送の実現可能性についていかなる意見も述べていない研究者ですら、カーツワイル氏の主張やサイエンスフィクションからもたらされる精神転送のイメージから、間接的に利益を受けていると言えます。

けれども、たとえば公衆衛生、予防医学再生医学や難病に関する特効薬の研究開発など、地味で注目を集めるものではなくても人々の健康と福利を直接向上させる研究や政策と比較して、計算神経科学が意義の高いものであるかどうかは検討される必要があります。(繰り返しますが、私は計算神経科学が意義の無いものであると主張しているわけではありません。優先順位とリソース配分の割合に関する議論です。) そして、議論の際には、実現可能性の乏しい未来技術のイメージは排除しなければなりません。


更には、倫理的・信仰的な側面からの意見を述べるなら、私は (一人の宗教者として) 不死の追求に対して、強い道徳的な嫌悪感と不快感を感じます。

秦の始皇帝は、不老不死を求めて水銀*1を飲んだと言われています。古来より、現世において権力と富と名声を得た人間がなお飽き足らず、不死を求めた逸話が多数存在しています。そこには、他人と世界を思うがままに動かしてきた人間の、醜い、肥大化しきった自我が見え、私は心底不快になります。

「不死の追求」という非生産的な行為に没頭できるのは、権力と富を得たごく一握りの人間だけでしかありません。権力と富を持つ人間であれば、多数の人々の福利向上に対して、より直接的な方法で貢献できるはずです。けれども、彼らが「不死の追求」を求めるのは、どのようにとりつくろおうとも自分の死を恐れているからに他なりません。そこには、「自分の自我」だけしか存在せず、倫理的な観点、つまり、自分が他人に対して何を与えられるか、何を遺せるかという観点が完全に抜け落ちています。

元金融デリバティブトレーダーであり、哲学的な著作もあるナシム・ニコラス・タレブは、次のように述べています。

  ついさっきまで、私はジョン・グレイの名著『不死化委員会 (The Immortalization Commission)』を読んでいた。宗教没落後の世界において、科学の力で不死を実現する試みを描いた本だ。古代の人々もきっと同じように感じるだろうが、私は人間に秘められた不死の能力を信じる(レイ・カーツワイルなどの)”特異点”思想家たちの活動に、深い不快感を覚えた。…加えて、私は不死の追求に深い道徳的な嫌悪を感じる。
  それは、82歳の金持ち老人が二十数人の”女の子” (その多くはロシア人かウクライナ人)をはべらせているのを見たときに抱くのと同じ、心の底からの嫌悪だ。*2

死は、私たちにとっての不可避の前提であり、後から来る人たちに場所を空け、タレブが言う「反脆いもの」に対して貢献するために必要不可欠なものです。
愛する者と自分自身の避け難い死に対して対処することは可能ですし、実際のところ、人類は死に対して対応してきました。そして、死は人類のあらゆる英知、文化、芸術、信仰と科学の原動力なのです。


最後に、「逆パスカルの賭け」を薦めて、この連載を終えたいと思います。

既に延々と述べてきた通り、精神転送があなたの寿命のうちに実現される可能性は、実際問題極めて低いものです。あなたが研究資金を得ようとする計算神経科学の研究者でもない限り、精神転送の実現可能性を信じることにはほとんど意味がありません。

しばらくの間は多少の慰めを得られるかもしれませんが、いずれあなたは精神転送という偶像を崇拝した代償を支払うことになります。オリジナルの「パスカルの賭け」では、賭けの結果が分かるのは死後でした。けれども、精神転送に関する「逆パスカルの賭け」では、来世における永遠の劫罰を持ち出す必要はありません。「この地上において永遠の生命を得られる」というあなたの希望は現世において裏切られ、この現世において絶望して死ぬことになるでしょう。

 

*1:実際には丹砂と呼ばれる硫化水銀と言われています

*2:タレブ『反脆弱性(下)』p.217