シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

リスクアセスメントの特異点 無限大x微小値問題あるいはパスカルの賭け (2)

リスクアセスメントの考え方について議論した前回の記事で、私の議論は『パスカルの賭け』をベースにしていることを述べました。そこで、今回はリスクマネジメントと意思決定理論の観点から見た『パスカルの賭け』について検討してみたいと思います。

パスカルの賭け

ブレーズ・パスカルは、17世紀フランスに生きた数学者、哲学者、神学者であり、物理学の世界では、流体の圧力に関する「パスカルの原理」や圧力単位の「(ヘクト)パスカル」に、数学では「パスカルの三角形」や幾何学の「パスカルの定理」にその名を残しています。また、パスカルは信仰心篤いクリスチャンでもあり、キリスト教の護教論に関するメモを残していました。パスカルは39歳で早逝したため、生前、護教論はまとまった形で発表されることはありませんでしたが、彼の死後、さまざまな編者によって整理されたメモが『パンセ』として出版されています。有名な「人間は考える葦である」というフレーズも、この本の中に含まれているものです。


パスカルは『パンセ』の中で、確率論の考え方を使用したキリスト教の護教論を提示しています。パスカルによる議論の流れを簡単に説明しておきましょう。

まず、パスカルの議論は、神が存在するかしないかは、理性では決定できない問題であるという前提から始まります。「もし神が存在するとすれば、それは限りなく不可解なものだ。神には部分も限界もない以上、私たちとはいかなる関係もないのだから。」そして、神の存在も不在も理性によって証明できないものであるため、どちらを選んでも誤りであるとは言えず、理性に反することも無い、とパスカルは述べています。「理性はここでは何も決定できない」以上「一方より他方を選んだところで、きみの理性がよりひどく傷つくことはない」というわけです。

神の存在は不可知であり決定できないという前提のもとで、パスカルが持ち出すのが「賭け」です。ここでの賭けの対象は自分自身の「一つの生命」です。もし、神が存在する方に賭けたとすれば、信仰者として相応しく生きねばならず、存在しない方に賭ける場合は、刹那的に、享楽的に生きていけば良いと言えます。そして、賭けによる儲けは「死後の世界」において支払われるものであると言えます。「神が存在するほうを選んだとして、損得を秤にかけてみよう。次の二つの場合を計算しよう。きみは、もし勝てば、すべてを獲得する。もし負けても何も失なうものはない。だから迷うことなく、神がいるほうに賭けるべきだ。」 パスカルは、神が存在し、かつ信仰しなかった場合の結果については特に述べていませんが、ここでは「永遠の地獄」と仮定しても差し支えないでしょう。

つまり、神が存在し、賭けに勝った場合、つまり信仰を持った場合の結果は「永遠の生命と幸福 (+∞)」を得られ、神が存在し、賭けに負けた場合は「永遠の劫罰 (-∞)」を被ることになります。そして、神が存在しないとした場合には、いずれにせよ死後には虚無があるだけであり、たとえ賭けに勝った (神を信じなかった) 場合でも、現世においてある一定量 (有限) の快楽を得られるに過ぎません。


このパスカルの議論を表にまとめると以下のようになります。なお、pは神が存在する(主観的)確率であり、N1, N2はそれぞれ有限の正の値です*1

  神は存在する
(確率 p)
神は存在しない
(確率 (1-p))
期待値
神を信じる +∞
(天国での永遠の生命と幸福)
-N1
(生存中の戒律)
+∞
神を信じない -∞
(地獄での永遠の劫罰)
+N2
(生存中の享楽)
-∞

 

ここでの期待値を考えると、神が存在する確率pがどれだけ極小であろうとも、ゼロでない限り、「神を信じる」ことの期待値は「神を信じない」ことの期待値を上回ります。ゆえに、神を信じることが合理的なのだとパスカルは主張しています。

パスカルの賭けに関する議論

このパスカルの議論が妥当なものであるかに関しては、既に多数の論者が異なる観点から検討しており、擁護・批判の両面からの膨大な議論が存在しています。

ここではあまり神学的な議論に深入りするつもりはありませんが、よく知られた批判としては「多神反論 (many gods objection)」と呼ばれるものがあります。つまり、パスカルの議論は、キリスト教の神だけではなく、あらゆる他の宗教の神 (?) についても、全く同様に成り立つだろうという指摘です。18世紀の啓蒙思想ドゥニ・ディドロは、端的に「イスラム教のイマームパスカルと同様に主張することができるだろう」と指摘しています。*2

個人的には、パスカルの議論は神の存在という形而上学的な議論を迂回して、人間の側の信じる意思のみを対象とした、という点で非常に面白い主張だと思いますが、今日では神学的な護教論としての意義はもはや失なわれていると考えています。(多数の日本人は、これを聞いても別にキリスト教ないし何らかの一神教を信仰しようとは思わないでしょう)

けれども、私がここで検討したいことは、パスカルの賭けの意思決定理論 (Decision theory) としての側面です。実際、今日のこの分野の研究者も「今日われわれが意思決定理論と呼んでいるものに対する最初の、はっきりした貢献」であると評価している人もいます。不確実な状況下において取るべき行動がいくつかある場合に、それぞれの行動によって得られる価値とそれぞれの確率を元に期待値を計算し、合理的に意思決定を行うという考え方は、パスカルの議論によって創始されたとも言えます。

しかし、意思決定理論の立場から見た場合のパスカルの賭けの難点は、前回も述べた通り、「来世における無限の生命と幸福」という「無限大」を持ち出した時点で理論が破綻しているということです。「神の存在確率p」がどれほど小さい値であろうとも来世での報奨は無限大であるのだから、どうであれやはり神を信じるべきだという結論となってしまいます。現代の日本人の視点から見れば、結局のところ、「護教」という結論ありきで議論を組み立てたという印象は拭えないと思います。

パスカルの賭けの誤謬

パスカルの賭け」を通して見ると、遠い将来の、不確かで信憑性すら疑われるような未来予測に対して、リスク評価の考え方を用いることは、極めて不合理な結論をもたらす、ということが明らかになります。

「可能性は否定できない(、ゆえに確率はゼロ以上である)」という無知論証と合わせて、「それが起こった場合の影響は甚大である」と主張しさえすれば、全く根拠を欠いた、信憑性すら怪しまれる未来予想についても検討し何らかの対策を取ることを強いることができるからです。これはちょうどパスカルの賭けにおいて、神や天国の存在に関する議論を迂回したことと同等です。*3。そして、リスクが存在するのだから、懐疑論の主張自体が無責任であるとさえ非難されてしまうのです。

このブログを書いている間にも、しばしばそのような非難めいたコメントを受け取りました。たとえば、私の記事に対して寄せられた下記のコメントにおいても、立証責任を放棄して期待値のみを取り上げています。

もちろん、未来は不確実であり、リスクの評価とマネジメントは重要なプロセスであることは間違いありません。そして、私自身は何らかのシナリオをベースに未来予測をすること自体を否定するつもりもありません。けれども、予測の妥当性に関する議論を迂回して、信憑性すら疑われる未来予測に対してリスク評価の考え方を適用し、予測者としての立証責任を全く放棄する議論については、私はパスカルの賭けの誤謬』と呼びたいと考えています。

 

パンセ(中) (岩波文庫)

パンセ(中) (岩波文庫)

 パスカルによる「賭け」に関する議論は『パンセ』の中巻にまとめられています。

*1:神が存在した場合の利得が±∞であるため、N1, N2の値の大小は議論に影響しません

*2:ただし、ここでパスカルが想定している読者は、伝統的なカトリックの世界観の中で育ちながらも、そこから離れようとしている人たちであり、無神論的な生き方が一つの現実的な選択肢として受け入れられつつあった17世紀のフランス社会を対象としたものであったということを考慮に入れる必要があるでしょう。

*3:ただし、パスカルの議論は、真の意味で証明も反証も不可能なタイプの問題でした。けれども、現実の世界における未来予測を問題とするならば、やはり何らかの妥当な根拠を示す必要があるでしょう。