シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

カーツワイル氏の将来予測についての考察

以前の2つの記事で、私は1999年時点でのカーツワイル氏による2009年、2019年の予測を検討しました。

全体を通して予測の印象を述べると、以下の通りです。

  • コンピュータ関連のテクノロジー自体に関する予測は先見の明がある
  • テクノロジーの使われ方に関する予測は、必ずしも正しいとは言えない
  • テクノロジーの「発明」と「普及」の間にある隔りを無視している
  • 臨床医療についての予測はほとんど外れている
  • 政治、経済、社会の予測は考慮範囲が狭すぎる
  • 全体的にあいまいで時期予測は楽観的すぎる

 

コンピュータ関連のテクノロジー自体に関する予測は先見の明がある

この予測がされたのは1999年であることを考えると、ポータブル・コンピュータ、ワイヤレスネットワーク、オンライン取引などの予測はかなり先見性を感じます。

また、当時の人工知能の研究状況を考慮すれば、2010年代半ばの人工知能研究の盛り上がりを先取りしていたことも注目するべきでしょう。特に、当時からニューラルネット遺伝的アルゴリズムを取り上げていたことは特筆に値します。

テクノロジーの使われ方に関する予測は、必ずしも正しいとは言えない

一方で、既に指摘した通り、カーツワイル氏はクラウドコンピューティングの予測に失敗していました (2009年 #10)。また、人間を模した「バーチャルアシスタント」について詳細に語っていますが(2009年 #20, #102)、仮想キャラクターと密接に結びついたその記述には古さが拭えません。

その他にも、カーツワイル氏が取り上げていない社会の変化もあります。たとえばWikipediaYouTubeのユーザによって生成されるコンテンツ、いわゆる「無料化経済」の隆盛があります。

概して、要素技術の予測には一定の先見性がある一方で、製品やサービス中の技術の使われ方に関する予測は凡庸です。おそらくその理由は、製品やサービスの普及においては、テクノロジーだけが問題になるわけではないからだと思います。「人々がどう考えるか」つまり、人間の心理が強く関わります。そして、人間の心理や認識は、しばしば予測不可能な形で抜本的に変化するものであるからです。

テクノロジーの「発明」と「普及」の間にある隔りを無視している

たとえば、網膜投影型ディスプレイ(2009年 #9)や超薄型ディスプレイ (2019年 #21)などは、試作品としては既に約15年前から存在しています。けれども、未だに一般的に普及しているとは言い難い状況にあります。

また、2019年の予測、「回転型記憶装置をはじめとする電気機械的なコンピュータ装置は、いまや完全に電子的な装置と置き換わっている。 (2019年 #13)」という予測は、新規のサーバ、ストレージやスマートフォンだけに限れば正確であると言えます。多数がフラッシュメモリを用いており、機械的な稼動部品は減少しているからです。しかし、HDDや磁気テープを用いた記録装置を備えたコンピュータやバックアップ装置も、まだまだ現役で広く使われています。

一般に、新しいテクノロジーが発明されること、テクノロジーが有用な製品やサービスとして実用化、市販され普及することの間には、ロドニー・ブルックス氏が指摘している通り巨大な隔りがあります。

仮にあるテクノロジーを用いた製品やサービスが実現できても、既に存在する物理的資本や制度はすぐに置き換えることはできず、変化が起きるまでにはその「質量」に応じた時間を要します。*1 これは、以前に私が「社会の慣性の法則」と呼んだものです。たとえば、自動車や大型機械、建造物や社会インフラといった長期の寿命を持つ資本の置き換えには、その耐用年数と価値に応じた時間を要します。制度や法律も同様に「質量」が大きく、改正には長い時間を必要とします。

近年注目を集めている技術のうち、特に「慣性」の大きさが示されている事例は、自動運転の普及に関する予測ではないかと思います。
カーツワイル氏に限らず、過去30年あまりの自動運転普及に関する予測は極めて楽観的でした。多くの予測者が非常に狭い「自動運転テクノロジー」の成熟速度にのみ注目していたように見えます。けれども、完全な自動運動の実現には、既存の非自動運転車との協調、インフラとの通信、社会規範や法制度の改正など、社会の広範囲におよぶ変更が必要となるものであるからです。

カーツワイル氏の予測はテクノロジーの普及・代替速度についての考察が完全に欠落しています。

臨床医療についての予測はほとんど外れている

既に別の記事でも指摘した通り、カーツワイル氏の医療に関する予測は、あまりに楽観的すぎます。移植、再生医療、機械インプラント等は、もちろん今後も研究開発が進められるでしょうが、完全な普及までにはまだ長い時間を要するでしょう。
既に述べた通り、その理由は以下の3つであると考えています。

  • 生命を対象とする学問の研究開発速度は、生物の代謝、生殖、寿命の速度によって本質的に制限されている
  • 人間を対象とする医学の臨床実験の許認可は、かなり保守的である (特に、治療ではなく「強化」を目的とする医療措置は、極めて長い時間を要する)
  • 人間の「不死を望む感情」により、その可能性が過大評価されている

政治、経済、社会の予測は考慮範囲が狭すぎる

カーツワイル氏の予測は、テクノロジーの成長を基盤として未来世界を予測するものです。

ところが、過去20年あまりの間に発生した全世界史的な巨大事件、たとえば9.11テロ、リーマンショック東日本大震災原発事故、シリアとイラクにおけるISの台頭と中東情勢の流動化、ロシアのウクライナ併合、Brexitとトランプ旋風、中国の軍事的伸張と北朝鮮のミサイル開発などを考えてみると、必ずしもテクノロジーのみを考慮していれば予測できる事象ではなかったと言えます。

もちろん、カーツワイル氏は政治学者、歴史学者や経済学者ではなくエンジニア出身の起業家であり、政治経済、社会や歴史に対する洞察力を欠いていることは何ら不思議ではありません。その予測も真面目に捉える必要は全くないでしょう。


特に、経済と雇用情勢に関しては、カーツワイル氏の予測は楽観的というよりもナイーブで夢想的であるとすら感じます。近年シンギュラリティ論とセットで語られることも多いベーシックインカム政策はもちろん取り上げられておらず、無形化経済・無料経済、技術的失業、格差の拡大と中間層の没落など、近年注目を集めている社会問題も、意識されていたように見えません。

私が思うにその理由は、カーツワイル氏は、「人間」対「人間」の対立ではなく、「テクノロジー」対「人間」の調和あるいは対立のみにしか眼を向けていないからではないかと思います。「ネオ・ラッダイト運動」に関する記述はその好例です。

カーツワイル氏は、個人と個人、集団と個人、あるいは集団同士、階級間、国家間の利害対立の実状にそれほど興味が無いのだろうと感じられます。

全体的にあいまいで時期予測は楽観的すぎる

私自身も、カーツワイル氏による予測の方向性そのものは妥当であると感じます。視聴覚と触覚の完全没入バーチャルリアリティ環境、薄型フレキシブルディスプレイ、自動運転などは、「いずれ」実用化され普及するだろうと思います。

けれども、カーツワイル氏の時期予測はあまりに楽観的で前倒しに過ぎます。2009年の予測は、現在2018年になってようやく普及が始まったものもあります。また、2019年に関する予測と現在の実状を比較してみると、その普及な実現までにはかなりの期間が必要となるだろうと感じられます。

全体的に、カーツワイル氏の予測は10〜20年程度楽観的です。その理由は、もちろん、ほとんどのテクノロジーは指数関数的に成長しておらず、カーツワイル氏の予測の論拠は「計算力のコスト効率の指数関数的成長」ただ1点のみであるからです。

おそらく、「今後指数関数的な成長が始まるとすれば、10年や20年程度の差異は大した問題ではない」という擁護がありうるでしょう。ここで重要なポイントは、過去において指数関数的な成長が見られないということです。将来、いつの日か、何らかのテクノロジーに指数関数的成長が開始される可能性までは否定しません。けれども、カーツワイル氏の過去の実績を見る限りでは、彼のモデルからは指数関数的成長がいつ始まるかを予測することはできないと言えます。

*1:もちろんこれは物理学的な意味での質量ではなく、一種の象徴的な比喩表現です