5章1節の「(拡張)ムーアの法則」に関する議論の補足です。
近い将来におけるシンギュラリティ到来を予測する議論は、これまで延々と述べてきた通り、ほとんどが根拠を欠いたものです。
けれども、ほぼ唯一、比較的明確な実証的根拠に基いた主張があります。過去およそ100年に渡って、計算力のコスト効率が指数関数的に成長してきたという「拡張ムーアの法則」です。
カーツワイル氏は、計算における第5のパラダイムである「ムーアの法則」が物理的な限界を迎えた後も、必然的にパラダイムシフトが発生し、「計算力のコスト効率の指数関数的向上」が将来に渡って継続されると主張しています。
けれども、「計算力のコスト効率の指数関数的成長」についても別の分析があります。
イェール大学の経済学者、ウィリアム・ノードハウス氏が、計算力のコスト効率を独自に集計したものです*1。
注:大きな丸は比較的信頼性の高い数値、小さな白抜きの丸は独立した検証を受けていない文献からの推測値。
グラフ上縦の線で描かれている1944年頃を境として、計算コストの指数関数的な成長が始まったと示されていますが、それ以前の時期においてはあまり明確な傾向は見られません。
また、近年2000年以降の計算力の向上については、マイクロアーキテクチャに関する最も標準的な教科書、通称「ヘネパタ本*2」に、1987年〜2017年までのマイクロプロセッサの性能を集計したグラフがあります。*3 このグラフからは、計算力は一様に指数関数的に向上してきたわけではなく、近年では鈍化傾向にあることが示されています。このグラフからは、2000年代初頭にかなり明確な傾向の変化が見てとれます。この時期は、ちょうど汎用の半導体プロセッサメーカーが単独コアのクロック数増加を諦め、マルチコア化を進めていった時期と対応します。 (自作コンピュータに興味があった人は、「Pentium4で目玉焼きが作れる」といった話を覚えているかもしれません)
もともとのカーツワイル氏による拡張ムーアの法則に対して、若干の疑問が残ります。
- 費用について
半導体集積回路以前の計算機は、研究・軍事目的の一点モノのプロジェクトがほとんど。すなわち、量産品である集積回路とは異なり、明確に費用を計算できない可能性がある。発明のアイデア段階で要した費用、設計・構築・運用費、あるいは開発者の人件費などをどの範囲まで含めているのかは明確ではない。また、過去の計算機開発費に対するインフレ補正はどのように行なっているのかも疑問が残る。 - 性能について
半導体集積回路以前の計算機の性能は、標準化されたベンチマークによる計測値ではなく、そもそも計算方式が異なる場合があるため、この値にも恣意性を含む可能性がある。 - サンプリングバイアスについて
最初期の計算機のデータ点は比較的少量であるため、指数関数的な傾向を示すようにデータを選定している可能性がある。
結論のところ、「ムーアの法則以前からおよそ100年に渡って計算力のコスト効率の指数関数的向上が観察できる」という主張は、やや懐疑的に捉える必要があると言えます。(明確に誤りとは言い切れませんが、更なる調査を必要とするでしょう。)
更には、もし仮に過去「計算力のコスト効率」が指数関数的に向上してきたとしても、帰納的に、それが今後も続くことが必然であると考える理由はありません。(ましてや「収穫加速の法則」が宇宙開闢以来続く秩序を統べる法則であるという主張は噴飯物です) その上、仮に将来に渡って計算力が向上し続けるとしても、そこから単純に外挿して汎用人工知能の実現時期を予測することは不可能であり、加えて、仮に人工知能が実現したとしても科学技術が高速で進歩するという仮定が誤りであることは、既に延々と指摘してきた通りです。
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*1:http://www.econ.yale.edu/~nordhaus/homepage/homepage/nordhaus_computers_jeh_2007.pdf
*2:Computer Architecture, Sixth Edition: A Quantitative Approach, p.3
*3:ただし、このグラフは計算力のコスト効率ではなく、1987年からの相対的な性能向上を表したものであることに注意