シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

そろそろクライオニクス(人体冷凍保存)について一言言っておくか

これまでにも、シンギュラリタリアニズム/トランスヒューマニズムの隠れた動機として、強烈な不死への願望 があることと、その望みはあまり叶えられそうにないことを指摘しました。(精神転送劇的な寿命延長)

けれども、彼らはもう1つ、死後生への期待を託す方法を残しています。臨床死の宣告後、身体を液体窒素で極低温(-192℃)に冷却して保存し、将来のテクノロジーの発達による復活に望みを賭けるという方法 - クライオニクスです。

確かに、極低温で人体を保存すれば、化学反応の進行を停止させられ、細胞レベルの巨視的な構造は保たれるでしょう。また実際に、ヒトの卵子など細胞を凍結し長期間保存する手法は、既に30年以上の実績があります。クライオニクスの提唱者は、この種の「根拠」にもとづいて、人体を半永久的に凍結しておき、将来テクノロジーが十分に発達した段階で、生体として蘇生するなり、あるいは精神転送するなりの方法で「復活」ができると想像されています。

けれども、私はクライオニクスによる復活も望み薄であると考えています。

そもそもの話をすれば、生きた人間を対象としてさえ、脳と意識のシミュレーションが本当に可能であるのかは未解決の問題です。最近話題になった、脳の保存をうたうベンチャー企業に関するMIT Technology Reviewの記事では、端的に以下の通りまとめられています。

もちろん、不明点はかなり多い。意識が何であるか誰も知らない (したがって、いずれ何らかの形で意識のシミュレーションができるか判定することも難しい) だけではなく、記憶や人格を保存するために脳構造や分子の詳細がどれだけ必要なのかも分かっていない。単にシナプスだけで良いのか、それともあらゆる分子が必要なのか?

A startup is pitching a mind-uploading service that is “100 percent fatal” - MIT Technology Review

 

私が精神転送に関連して既に指摘した通り、人間の精神、意識や記憶の原理は分子のレベルに存在すると考えられます。水は凍結し固体化する際に体積が増加するため、いかなる方法を取ったとしても、脳内の分子レベルの微細構造は破壊されます。分子レベルの微細な損傷を検出する方法はなく、まして(元の形状に関する情報が存在しない状況で) 修復することは極めて困難でしょう。

生体としての蘇生であれ、精神転送型の蘇生であれ、蘇生の処置には分子機械 (ナノボット) が必要になると考えられます。実際に、クライオニクスの提唱者もナノボットに言及することが多いですが、ドレクスラー型のナノボットのビジョンには批判もあり、また必ずしも彼の想像通りにナノテクノロジーの研究が進んでいないことも、既に取り上げた通りです。

 

仮に、前提となる技術開発の条件が整ったとしてさえ、実際に「復活」を遂げるためには、ありとあらゆる哲学的・実際的な問題を解決しなければなりません。

まずは、古典的な自己同一性に関する問題が挙げられます。

生体蘇生の場合でも、脳を構成する分子のほとんどは、「蘇生」処置によって入れ替えられるでしょう。その場合、復活した人物が死亡前の人物と同一人物であるのかは自明ではありません。たぶん、対象者の人格と記憶 (の一部だけ) を持った別人が復活するのみとなる可能性は、非常に高いと考えられます。(精神転送でも同様です)

更に、遥か遠い未来の人たちが、縁もゆかりもない過去の人間を復活させようと望むのかも分かりません。一人二人であれば、学術的な興味から蘇生を試してみるかもしれません。けれども、数千人、数万人単位で対象者が存在した場合、果たして全員を蘇生させようと思うでしょうか?

仮に復活できたとしても、世界の言語、制度や経済は根本的に変化しており、見知った人間はほとんど死んでいるでしょう。復活後に生計を立て生きていく方法も、現在のところ完全に不明です。

さまざな状況を考慮した上で、なお「未来技術であれば解決できる」と主張することは、「魔法に不可能はない」というレベルの主張とまったく同等です。

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死への恐怖それ自体は理解できますし、ここで挙げた技術的な困難と未解決問題を理解した上で個人としてクライオニクスを受けることは、「信教の自由」、ちょっと風変わりな新興宗教にもとづいた死者の埋葬儀礼の範囲に属するものでしょう。

けれども、死後生への期待あるいは恐怖に訴えかけ、経験的根拠を欠いたサービスを科学の装いの元に販売する人間や企業は、邪悪で悪辣な破壊的カルトの詐欺師であると言わざるをえないものです。

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実を言えば、あまりクライオニクスについては取り上げるつもりはありませんでした。クライオニクスにまつわる技術的論点はほとんど精神転送と重複していますし、既に多数の医学者・神経科学者によってその問題点が指摘されています。また、クライオニクスを実践する団体の運営の杜撰さを告発する本も和訳されています。そもそも、日本ではシンギュラリタリアニズム以上に周縁的な信念に過ぎないでしょう*1

けれども、クライオニクスの提唱者がうそぶく詭弁的なビジョンは、難病に対する効果をうたう代替医療やシンギュラリティ論など、悪辣な疑似科学詐欺的主張とほぼ共通しています。曰く、「物理法則には反していない。」曰く、「不可能であるとは証明されていない。」曰く「将来どれほどテクノロジーが進歩するか誰にも予測できない。」
この手の主張はすべて詐欺であると考えて間違いなく、クライオニクスはほとんど誰も信じていないビジョンであるからこそ、彼らの主張が詭弁であるということが明確に理解できるでしょう。

 

人体冷凍  不死販売財団の恐怖

人体冷凍 不死販売財団の恐怖

*1:死生観の違いによるものか、日米でクライオニクスに対する温度差があるのは興味深いです