「シンギュラリティの主張は、はっきりとした科学的証明がなされていないという点で、認識論的に間違っている。しかしそれだけで済ますことはできない。シンギュラリティの主張は、倫理的にも非難されるべきである。シンギュラリティという特殊なシナリオを示すことにより、他にも存在するさまざまな危険性から人の目をそらし、その危険の存在を隠蔽しているからだ。」ジャン・ガブリエル・ガナシア著『そろそろ、人工知能の真実を話そう』 (p.138)
ここまで、「シンギュラリティ」の妥当性について、主にシンギュラリティ論の内部の立場に立って論じてきました。
けれども、ごく基礎的な科学・工学教育を受けた人であれば、シンギュラリティ論が経験的根拠に基いた「近未来の予測」というよりは、「遠い将来の夢想」を描いたビジョンであることは、わざわざ詳細に検討するまでもなく一目瞭然だろうと思います。実際のところ、私の書いたものを読んだ(科学的・思想的な素養のある)人の反応もおおむねそのようなものであり、またそんなコメントを受け取ったこともあります。
結局のところ、シンギュラリタリアニズム/トランスヒューマニズムは、アメリカでさえ主流派とは言いがたい周縁的な運動であり、現実にはさしたる影響力を持っていないじゃないか。そんな主張をする人間は、だいたいがAI関連分野の利害関係者で、彼らは何の根拠もないと理解した上で、プレゼンスと研究資金の獲得のために利用しているだけだろう。あまりに楽観的すぎるのは確かだけれども、それでも、未来のビジョンとしては面白いし、科学やテクノロジーに対する大衆のポジティブなイメージ向上に役立つのだから、さして危険視して躍起になって否定しなくても良いではないか、というわけです。
そこで、最終章ではこの疑問に応えたいと思います。つまり、シンギュラリティ論が 「正しいか誤りか」という議論の外側に出て、「なぜシンギュラリティは問題か」を議論します。
私がシンギュラリティ論を検討してきた理由は、より広い意味で、テクノロジーの研究開発に対する「ハイプ」-誇大広告と過剰期待- の存在とそれが引き起す問題を考える上での題材となると考えたからであり、また、シンギュラリタリアニズム/トランスヒューマニズムの主張と、主流派の「テクノロジーによって可能となると考えられていること」の間の距離は、さして隔たっていないと考えるからです。
そこでまずは、科学技術に対するハイプとそのあり方を明らかにした上で、テクノロジーのハイプが科学技術の研究と政策を歪めていること、そして、現在現実に発生している問題を隠蔽してしまう問題について検討したいと思います。そして、更に広い視点からは、この種のハイプ (広く言って、実証的基盤を持たない将来予測) が、我々のテクノロジーに対する見方を歪曲し、ありえる未来の姿に対する視野を狭め、建設的な未来への議論を損なっていることを批判したいと思います。