シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

ハイプとは何か?

新たなテクノロジーの出現時には、「ハイプ」 --すなわち、開発者による誇大広告と一般大衆の過剰な期待、より広く言えば、将来の可能性に対する「過大評価」と「誇張」-- またその裏返しである「恐怖」が見られます。これは何も、最近の機械学習人工知能に限った現象でもありません。

19世紀末から20世紀初頭にかけては、新技術である電気の将来性に対する夢想が存在しました。電気を題材にしたさまざまな空想科学小説が書かれ、またゼネラル・エレクトリック社などの大企業も、広報のため電力に対する大衆的イメージを積極的に利用したと言われています。

あるいは、既に本書でナノテクノロジーを論じた際に引用した「ナノ・ハイプ狂騒」にも、20世紀末から2000年代初頭にかけて、学術・産業界および政治・行政・メディア・市民運動などさまざまな分野で、各々の思惑からナノテクノロジーの将来性に対する著しい過大評価が起こったと記録されています。

またあるいは、私とほぼ同世代以上の、現在30代以上の人々は、80年代~90年代には「サイバースペース」、2000年代には「Web2.0」などの標語の元に、コンピュータとインターネットの未来に対する楽観的な夢想が広がっていたことを、まだ覚えているだろうと思います。

もちろん、インターネットの将来に関する彼らの想像が的確であった部分もあります。けれども、国家と国際的超巨大企業に支配され管理統制を強める現在のインターネット、リベンジポルノやフェイクニュース、漫画など著作物の違法アップロードから諜報機関による世論操作に至るまで、インターネットが解き放ったさまざまな負の側面を省みると、当時想像されていた情報化社会の未来像とはやや異なる印象を受けることも確かです。

ところで、新しい情報メディアの登場時に表れる、社会制度が抜本的に改革され政治的不平等が消滅するという空想は、まったく新しいものではありません。19世紀には新聞、ラジオやテレビなどの新しいメディアが人々の意思を統一し真の民主主義を打ち立て、専制を終わらせるという主張も存在していました。実際のところはその逆に、19世紀アメリカの新聞が煽り立てた米西戦争、20世紀のドイツ、イタリアや日本の独裁政権など、新たなメディアは新たな形のポピュリズムファシズムを可能ならしめるものであったと言えます。

その他にも、かつて1960年代には、核融合が無尽蔵のエネルギーを供給するため、「あまりに安価すぎるため測定不要」 (too cheap to measure) になるという想像がされていたようです。「無尽蔵のエネルギー供給」をうたう核融合エネルギーの研究史は、あまりに馬鹿げたレベルの楽観主義と希望的観測による錯誤と研究不正、その裏返しである失望と、過去の失敗の忘却の繰り返しでした。

ひとたび新しいテクノロジーが発明されれば一挙に普及して社会を一変させ、旧弊な体制と価値観を葬り去るという希望と誇張に満ちた主張、あるいはその裏返しである恐怖に満ちた主張は、古くから何度も何度も何度も繰り返されてきたものです。ここで再びヨギ・ベラの深遠なる洞察を用いるなら、「これはまるでデジャブの繰り返しだ。」とでも言えるかもしれません。

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

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