シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

翻訳:約束の経済

以下の文章は、イギリス、シェフィールド大学天文物理学科教授であり、ナノテクノロジーを専門とするリチャード・ジョーンズ教授が2008年に公表した文章 "Economy of Promises" の翻訳です。

なお、編集された版がNature Nanotechnology誌のサイトに掲載されています。

約束の経済

ナノテクノロジーは2015年までにガンを治療できるだろうか? アメリカ国立ガン機関 (NCI) [National Cancer Institute] のガンナノテクノロジー計画を読むと、そんな印象を受けるだろう。この計画書は、印象的な宣言から始まっている。

To help meet the Challenge Goal of eliminating suffering and death from cancer by 2015, the NCI is engaged in a concerted effort to harness the power of nanotechnology to radically change the way we diagnose, treat and prevent cancer.

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2015年までにガンによる苦痛と死を根絶するという目標への挑戦に対する支援のため、NCIは、ガンの診断、治療、予防方法を根本的に変えるナノテクノロジーの能力を制御するための、協調した取り組みに従事している。

ナノテクノロジーが、潜在的には、ガンとの戦いに大きく貢献する可能性があることを疑う人間はいないだろう。新たなセンサは早期診断を可能とし、化学療法のための新たな薬品デリバリーシステムは、生存率向上のために役に立つだろう。けれども、7年の間に苦痛と死を根絶するにはほど遠い。そこで、この文書を詳細に内容分析してみよう。NCIは、2015年までにナノテクノロジーによりガンが治療可能となると、明示的に主張しているわけではないと理解できる。実際には、「目標への挑戦」および「障壁を下げる」と言っているだけだ。けれども、このようなうっかりした誤読によって容易に誤った結論が引き出されてしまうような書き方は、本当に賢明であると言えるだろうか。

ナノテクノロジーの開発には、誇張と誇大広告的な約束が伴ってきたということは、まったく新しい洞察でもない。(...)この誇張された約束に対して、科学者は自身の無実を訴え、距離を置こうとするかもしれない。結局のところ、ナノボット、万能アセンブラーやその他のサイエンスフィクション的ナノテクノロジーのビジョンは、シンギュラリタリアンやトランスヒューマニストのようなフリンジ的運動のメンバーが提唱しているものであり、主流派のナノ科学研究者のものではないからだ。そして、ナノテクノロジーのビジネス的側面に関わる商業主義は、多くの科学者にとってアカデミアから遠く離れた出来事のように見える。けれども、ナノテクノロジーを取り囲む「約束の経済」とでも呼べる現象について、本当に科学者はまったく責任を負っていないのだろうか?

もちろん、ほとんどの人が新しい科学の進歩について知る手段は、科学文献ではなくマスメディアである。加えて、アカデミアの研究室で得られた結果が一般メディアの記事へと変換されるプロセスにおいて、当然のごとくドラマチックさと研究の潜在的影響が強調される。論文誌の学術論文から大学広報局のプレスリリースへと至る道のりは、学術論文としての注意深い言葉遣いをシステマティックに除去するプロセス、また、あいまいな将来の可能性を近未来の確定的な成果へと変換させるプロセスとして特徴付けられるだろう。

ここでのキーワードは「可能性がある」だ。--一流論文誌に掲載された、堅実ではあるが革新的でもない論文のプレスリリースの中で、この研究は革命的でラディカルな技術や薬品の開発に繋がる「可能性がある」という表現を、どれほど頻繁に眼にしたことがあるだろうか?

ジャーナリズムの現場では、科学者たちから自然に生じる障壁に対応できないと言われている。それゆえ、多くの科学者はこのプロセスを黙認し従っている。これらニュースストーリーを語る、選ばれた「エキスパートの」コメンテーターは、問題に対する深い技術的知識を持っておらず、誇張された技術的成果のアジェンダを宣伝する願望とコミュニケーションスキルを組み合わせたような人間である場合も多い。

ナノテクノロジーの議論についての奇妙で予期不能な特徴としては、ナノテクノロジーの社会的な影響と倫理的側面について語ること自体が、期待の高まりを助長していることが挙げられる。(...) あまりに極端なナノテクノロジー発展の外挿をもとにして、その倫理的・社会的な影響を空想すること自体が、暗黙のうちに、そのビジョンに対するお墨付きを与えてしまうのだ。もしも、テクノロジー発展の帰結を想像することができ、それが自然法則に反すると証明できない場合には、社会に起こりうるインパクトについて考えないことは、無責任だと言われてしまうのだ。この場合、妥当性や実現性についての疑問は脇に置かれてしまう。(...)

科学者たちは、過激なナノテクノロジーのビジョンが公共の場に根付き活力を保っていることに対し、ある種の無力感を感じるかもしれない。メディアが科学ストーリーを扱う方法に対して、科学者ができることがそう多くあるとは思えない。科学の進歩の潜在的重大性を控え目に語ることによりメディアでのキャリアを築いた人は、おそらく確実に存在しないだろう。これは、メディアの制約条件の中で、科学者がその責任と正確性を行使する必要はないと述べているのではない。それでも、「約束の経済」は、我々が認識するよりもはるかに深く科学的活動の中に埋め込まれている。

約束を絶対的な前提とする文書の種類としては、研究提案が挙げられる。研究資金の提供機関から、潜在的に経済的インパクトのある研究を行うようにという圧力が高まるにつれて、研究者が自分の研究は劇的な成果に繋がるという強い主張を述べるようになることは避けられない現象であるようだ。このような主張と伝統的なアカデミックな価値観との衝突が、ある種の冷笑主義を生むことはおそらく理解できるだろう。科学者は、自分の研究を正当化する独自の方法を持っており、研究の究極的な応用についての誇張された主張、あるいは実現不可能な主張に対する罪悪感を緩和させられるかもしれない。多少無謀な主張を正当化する方法としては、科学と技術は実際に社会と経済に大きな影響を与えてきており、そのインパクトは元々の研究が行われたときには予測不可能であった場合すらある、という観察が挙げられる。たとえ個々の研究者の主張が妥当ではないとしても、研究者全体としては重要な成果をもたらせるのだと正当化できるかもしれない。

つまり、科学者は、自分自身の研究のみが大きな影響を与えるとは信じていないかもしれないが、一方で科学全体は大きな利益をもたらすと確信している。その一方で、大衆は、科学技術が約束したものの実現できなかった約束について長く記憶しているだろう。 (原子力発電は「測定不要なほど安価」という宣伝は、最も悪名高い例である)これは、他に何もなければ、ナノサイエンスのコミュニティ自身が約束の支払いを負うことを示している。