シンギュラリティ教徒への論駁の書

"Enjoying science fiction is not the same thing as doing science or making science policy." - Dale Carrico

遺伝子改造によるトランスヒューマン誕生

近年のシンギュラリティに関する議論ではほとんど注目されることはありませんが、ヴァーナー・ヴィンジ氏が1993年に提唱したシンギュラリティ論においては、いわゆる汎用人工知能の発明以外にも、薬剤や遺伝子工学による人間の知能増強が、シンギュラリティを引き起こす仮説上の超知能の発生方法として提唱されていました。

 

近年では、CRISPR-Cas9など、生物のゲノムを人工的に操作し、人為的に意図した通りに単独の遺伝子を編集する技術が開発されています。既に2015年には、中国でヒトの受精卵に対するゲノム編集が行なわれています*1。(ただし、これは純粋な学術実験であり、妊娠・出産を目的としたものではありません)  2017年現在のゲノム編集技術からすると、明日にでもゲノム編集を受けたデザイナーベビーが妊娠中である (または既に誕生した)、というニュースがあってもおかしくありません。

もちろん、この種のゲノム編集技術が潜在的に非常に大きな可能性と脅威を秘めており、技術的な問題のみならず倫理的な価値判断と社会制度の設計まで含めた広範な議論が必要であることは確かです。けれども、ことシンギュラリティ論に限った観点から言えば、現実的な意義と脅威はそれほど大きくありません。端的に言えば、人間を人工的に強化できるほど遺伝学の知見は進んでいないということ、そして、この種の手法の効果と副作用の検証には、人間の寿命のタイムスパンを要するからです。

 

現在では、重篤な疾患を発生させる単独の遺伝子欠損については、ある程度の知識が蓄積されています。けれども、たとえば知能の増強、身体的能力の向上、外見的な美貌の向上などについては、単独ないし少数の遺伝子のみの作用で可能であるという根拠はありません。

現代の生物学では、ゲノムは単一で働くものではなく、ネットワークを形成しその中で複数の役割を担っているという理解が一般的になっています。それゆえ、その中に特定の身体や知能の形質形成において特異的に関わるような専用の遺伝子が存在している、と考えるのは困難です。更には、遺伝子の発現においては、身体 (それ自体が多数の遺伝子が協調して働いた結果の産物) と環境からなる複雑な相互作用が影響していると考えられています。

近年の生物学の研究により、かつて考えられていたように遺伝子に特権的な役割を認める見方は揺らぎ始めています。たとえば、米イリノイ大学のジーン・ロビンソン教授の研究によると、気性が穏やかなイタリアミツバチの幼虫を、キラー・ビーと呼ばれる人を刺し殺すこともある獰猛なミツバチの巣に移して育てさせると、イタリアミツバチも獰猛な性格を持つようになったことが報告されています*2*3

ここでは、ミツバチの攻撃性に作用するタンパク質を生成する遺伝子が、周囲の「養親」であるキラー・ビーの警戒フェロモンが引き金となって働き始めたことが示されています。遺伝と環境との間に介在する仕組みは、「エピジェネティクス」と呼ばれ、近年では活発に研究が進められています。人間の身体や知能についても同様に、身体や知能の何らかの一つの要素をつかさどる特定の遺伝子が存在すると前提する見方は、無根拠に認めることは困難です。


更に言えば、仮に動物実験や理論研究によって何らかの「増強遺伝子」が発見されたとしても、それをヒトの受精卵 (あるいは成人) に適用した上で、致命的な障害が発生せず、意図した通りの効果を得ることができると検証するためには、少なくとも人間の寿命のタイムスパンに渡る試行錯誤、多数の被験者に対する追跡調査と統計的なデータの処理が必要になります*4。一般に、人間を対象とする医療処置の検証と許認可には長い時間を要し、医療目的以外の人間の強化などはそれ以上に長い時間を要することは、精神転送に関連するエントリでも述べた通りです。もちろん、(本質的ではありませんが) 安全性や倫理的な問題も存在します。けれども、たとえ安全性や倫理の問題を全く無視するような非人間的なマッドサイエンティストであったとしても、(少なくとも現状では) 細胞分裂の速度を早めることはできず、人間の成長を早めることは不可能です。

もちろん、実際問題としては、科学者や医師が倫理的問題を無視して研究を進めることは不可能であると考えられます。ヒトの遺伝子改変については、一般の倫理的な嫌悪感・忌避感がきわめて強く、既に各国で法規制が始まりつつあります。仮に、無許可で非医療目的でのヒトの遺伝子改変が行なわれたとして、患者や胎児が何らかの重大な障害を負った場合、民事上の損害賠償や刑事罰、病院や研究所の許認可や医師免許の剥奪といった行政処分、あるいは研究者コミュニティからの排除といったさまざま罰が研究者や医師に科される可能性はごく高いでしょう。(実際のところ、この種の議論は30年以上前に遺伝子組み換えの技術が開発された時から続いています)


スタンフォード大学の法学・生物倫理研究所所長であるハンク・グリーリー氏は、2015年のブログ記事で次のように述べています。

…非医療的な [訳注:遺伝子改変の] 需要は、少なくともかなりの期間は少ないままに留まるだろう。私は、ほとんどの人の本当の恐怖はこれだと考えている —すなわち、遺伝子改変された超人類である。しかし、何億ドルも研究費が費された後でさえ、我々が病理遺伝学について分かっていることは驚くほど少ない。そして、我々は「エンハンスメント[強化]」に関する遺伝学については、ほぼ何も分かっていない。

私は、非病原性の1つの対立遺伝子について、他のものよりも実質的な利点を与える可能性が高い単一の非病的形質に関して、自信を持って断言することができない。もちろん、将来には新たな発見が有りえるだろう。しかし、どれくらいの速さだろうか。私の考えは、どちらの場合においても、それほど速くはないというものだ。

 

…ヒトの生殖系列のゲノム編集については、長い間、激しい論争が続いている。どれくらいの数の将来の親が、どれほどの企業が、どれだけの病院が、それほどの小さな報酬のためにその論争を引き受けたいだろうか?

Of Science, CRISPR-Cas9, and Asilomar - Law and Biosciences Blog - Stanford Law School

 
最初に述べた通り、近年のゲノム編集技術の進歩は目覚しく、潜在的に大きな可能性と問題を秘めています。けれども、それが超知能人類を生み出すことはありません。仮にあったとしても、それは数百年、もしくは千年単位での遥か遠い遠い未来のことになるでしょう。

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