シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

後書き - シンギュラリティ死の五段階説

過去2年程度、私がこのブログを書いている間に、第三次AIブームとシンギュラリティ論はお決まり通りの興亡の道を辿った。その軌跡は、スイス系アメリカ人精神医学者でありグリーフケアの第一人者、そしてスピリチュアリストでもあるエリザベス・キューブラー=ロスのモデルを通して理解できる。もちろん、彼女が語っていたことは、余命宣告というリアリティに直面したときに人々が辿る5つの心理段階についてであるが、それはある信念体系が死を迎える過程についても同様に適用することができる。

最初の段階は、"否認" である。突然の余命宣告を受けた人は、通常の場合、「それは何かの間違いだ」、「自分にこんなことが起こるはずがない」として、発生した事象の認識を拒否する。シンギュラリティ論の場合で言えば、私のブログ、あるいは新井紀子氏の書籍のような、懐疑論の存在を一切無視し言及しないという形で表れていた。

第二の段階は、"怒り" である。キューブラー=ロスによれば、現実の否認がもはや困難になると、「どうして私なんだ!」という感情から、周囲の身内、友人知人、あるいは医師や世間などに対する怒りの爆発が生じるのである。このブログと、その敵対者を見守っていた人であれば、議論のなかで突発的に、不合理に激怒する人々がいたことを記憶しているだろうと思う。

第三段階は "取引"である。キューブラー=ロスの著作では、余命宣告された人々が、神や家族や医者に対して、罪を改め清い生き方をするという約束をする事例が取り上げられている。もちろん、彼女が指摘する通り、この"取引"は現実をわずかなりとも変化させることはない。けれども、"取引"は、何らかの望ましくない事象が発生したことを認識し受け入れるために必要となるステップである。シンギュラリティ論の場合で言えば、私 (渡辺) は嘘つきで不誠実なバカでありその主張は信頼に値しないとか、カーツワイルの予測は社会の予測としては外れていても情報分野においてはまだ有効だと主張するとか、あるいは、自分自身ではもはや信じていない未来予想に「予防原則」を持ち出して、社会に多大な影響を与える可能性があるのだから警告と対処が必要であるとかの心理的な"取引"を通して、信念体系の中心部分を守り続けようとしている人が観察できるだろう。

第四段階は、"抑鬱" である。喪失感が強まり、感情の起伏が無くなっていく。「シンギュラリタリアン」としてソーシャルメディア上で活発に活動していた人々が多数、アカウントを削除して消えていったり、アクティブな活動を止めてしまったのは、この抑鬱段階として捉えることができる。

最後の第五段階は、"受容" である。キューブラー=ロスが注意する通り、"受容" は喜びではない。むしろ、諦観 - あきらめの気持ちと言ったほうが正しい。これは世界が変わってしまったという事実に折り合いを付けるプロセスであり、以前までの段階には存在しなかった見返りをもたらす。新たなリアリティについて何らかの意義のある行動を取れるようになるのだ。余命宣告を受けた人の場合では、死を迎える場所や自分の死後の埋葬方法などを家族と検討したり、遺言を遺すなどの実際的な準備を行なえるようになる。私が見たところ、シンギュラリティ論の場合では"受容" 段階を迎えた人を観察できないのだが、それには充分な理由がある。

キューブラー=ロスの批判者が指摘してきた通り、余命宣告を受けた人すべてがこの通りの心理的段階を経るわけではない。病状の進行速度によっては複数の段階を行き来する場合もあるし、ごく少数ながら死を迎える直前まで "否認" 段階に留まる人もいる。以前に指摘した通り、信念体系は否定されればされるほど強化されるという性質を備える。そのような人々の実例も簡単に見つけられるだろう。生物学的な死とは異なり、信念の死は明確に定義できない。特に、その信念体系が未来についての予測である場合にはなおさらだ。予測が外れた場合にも、更に予測を先送りし後倒しすることで信念を保ち続けることができる。

その意味で、シンギュラリティ論は決して死ぬことはないだろう。今から25年後、50年後、あるいは100年後にも、世界がどのような形になっていたとしても、我々自身の似姿を創造し、神の役割を演じようとする試みは決して途絶えることはないだろう。(ダートマス会議の時代の計算機の性能を考えてみれば、現状の計算機と比較すればごくささいな計算力を使用してさえ、人間のさまざまな認知機能を模倣できることが分かる。) どのような未来の世界であっても、超越的な知能による報われない現実からの救済、あるいは破滅の願望を託す人々が存在し続けるであろうことは疑いがない。

それでも、我々はそろそろ先へ進むべきなのではないかと思う。テクノロジーの指数関数的進歩によるユートピア、あるいはディストピアという思考のトラップの間を進み、異なる複数の未来のあり方を想像して、そのような状況下でも我々が取りえる建設的な行動は何であるかを探ってみたい。