シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

ナノテクノロジーとは何か

ナノテクノロジーとは、物質をナノメートルの単位、すなわち、十億分の一メートルという原子や分子の単位で扱う技術の総称です。つまり、微小スケールを対象とする量子物理学、材料化学、分子生物学、および機械的加工技術、計測技術などにまたがる学際的な研究分野を指しており、ナノテクノロジーという何らかの単一の技術分野が存在するわけではありません。

技術雑誌『ザ・ニュー・アトランティス』の編集者であるアダム・カイパー氏によれば、「今日ナノテクノロジーとして受け取られているものは、実際にはただの材料工学である。主流のナノテクノロジー、つまり何百もの企業に実践されているものは、従来の化学工学と新たに手にしたナノスケールの力との知的成果にすぎない。」とされています。実際のところ、材料ナノテクノロジーは何ら目新しいものではなく、「ルネサンス期の芸術家はナノ粒子によって魅力的な色と光彩を得た絵の具やうわぐすりを用いた。古代人もすすのナノ粒子の利用法を見つけていた。*1」とも述べられています。

分子ナノテクノロジー

けれども、私がここで取り上げるつもりの、カーツワイル氏をはじめとするシンギュラリタリアンやトランスヒューマニストによって想像されている「ナノテクノロジー」は、分子機械・分子製造あるいは総称して分子ナノテクノロジー (Molecule Nanotechnology; MNT) と呼ばれる、より「過激な」種類のナノテクノロジーです。

化学の基礎知識によれば、人間の身体も含め、私たちが手に取ったり口にしたり身に付けたりするあらゆる物質は、限られた種類の原子から構成されています。これまでに知られている原子の種類は100を超える程度で、日常的に私たちが扱う物質においては、原子の種類はせいぜい数十種類でしょう。ゆえに、ナノスケールの機械を用いて原子を望みのままに配置することができれば、原理的には、原子から分子を、そしてあらゆる種類の物質を作り出すことが可能である、と主張されています。

こうしたナノスケールの製造機械の概念を「万能ユニバーサルアセンブラー」と名づけ、著書を通して広く普及させたエリック・ドレクスラーは以下のように述べています。

アセンブラーは、もくろみどおりに原子を配列することができるので、自然の法則の許す限り、何でも作り上げることができる。我々がデザインできるものがあればどんなものでも、アセンブラーは実現してくれるので、このようなアセンブラーがもたらす影響ははかりしれない。…だからアセンブラーを使えば、我々の世界を再構築することも可能だし、破壊することもできる。」*2

この種の分子ナノテクノロジーの実現によって、カーツワイル氏をはじめとするシンギュラリタリアンやトランスヒューマニストが目指していることは、まず手始めに、物質的な欠乏の終焉であると言えます。あらゆる食料、衣服、家具から複雑な工業製品までを、ちょうど現在インターネットから音楽をダウンロードしスマートフォンで聞くように、手近な原材料からソフトウェア的に構成することで、望みの物質を何でも手にすることができる、と夢想されています。

…実際、海外のテレビで放映されたナノテクノロジーの特集番組にこんなシーンがあった。ドレクスラー本人が出演して、電子レンジの中に牛の食べ物である牧草と空気と水を入れ、ボタンを押す。チンと鳴ってふたを開けると、何とステーキの出来上がり!という趣向である。もちろん映像のトリックだが、ドレクスラーは、こうしたフィクションのような世界がナノテクノロジーによって実現できると主張したのである。あまりにも荒唐無稽で、科学の範疇から逸脱していると思うかもしれないが、このドレクスラーの考え方は、物理法則として間違ってはいない。確かに一見SF的だが、実はこれと同じようなことが,生物の体内では日常的に起こっているからである。*3

ナノテクノロジーと医療

そして、ナノテクノロジーによって変貌すると予想されているのは、外部のモノの世界だけではありません。人体も当然、原子から構成されているため、ナノテクノロジーを医療に応用することによって、肉体や生物学上の制限すら取り払われると言われています。ナノスケールのロボット (ナノボット、ナノマシン) を体内に注入することで、病原菌や癌細胞を除去し、あるいは脳や身体の機能を強化し、老化を防止し若返りすることすら想像されています。ドレクスラーが想像した「レストーラー」というナノマシンは、肉体の細胞組織を修復することで、若い頃の健康を取り戻させることができるだろう、と主張されていました。

また、精神転送に関する記事でも取り上げた通り、脳のコネクトームと分子状態をスキャンすることで、自身の自我をコンピュータ上にアップロードすることさえ想像されています。

 

端的に言えば、シンギュラリタリアンやトランスヒューマニストのビジョンにおけるナノテクノロジーとは、人体も含めたあらゆる物質の世界を情報テクノロジーの支配下に収めてソフトウェア化し、指数関数的な成長を物質世界にもたらす手段であると言えます。

 

ナノテクノロジー―極微科学とは何か (PHP新書)

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創造する機械―ナノテクノロジー

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*1:The Nanotechnology Revolution - The New Atlantis

*2:エリック・ドレクスラー(1992) 相沼益男(訳)『創造する機械―ナノテクノロジー

*3:川合 知二(2003)『ナノテクノロジー 極微科学とは何か』p.51