シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

ムーアの法則の延命策

よくよく考えてみると、私たちはトランジスタを構成する半導体 (シリコン) という物質に対して、極めて都合の良い要求をしていると言えます。

以前にも述べた通り、トランジスタはスイッチです。つまり、電源オフの間は電気が溜められ、オンになると電気が流れるものです。

このオンとオフが、設計者の意図通りに切り替わってほしいのですが、この2つの動作ではそれぞれ真逆の性質が求められます。電源OFFの間はなるべく電流が流れにくく、ONになれば速やかに電流が流れる必要があります。つまり、この2つの状態ではそれぞれ抵抗の高い状態と低い状態という正反対の状態が必要であると言うことです。

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この2つの矛盾した性質を持たなければならないという宿命から、シリコン内の電子の移動速度は比較的遅いものとなっており、それが論理演算の速度を制限しています。そもそも、トランジスタ(transistor)という言葉自体が、transfer(転送)とresistor(抵抗)の合成語なのです。名前からして、トランジスタは矛盾を抱え込んだものであると言えます。


最近の研究報道を見ると、「シリコン製半導体よりも高速に動作する素子が発見された、だからムーアの法則はまだまだ延命できる。」と新しい素材が数多く提案されています。よく取り上げられる例としては、炭素原子のシートであるグラフェン、あるいは、グラフェンが筒状に巻き上げられたカーボンナノチューブなどが挙げられるでしょう。

カーツワイル氏も、『ポスト・ヒューマン誕生』の中で、「カーボンナノチューブが次世代のコンピューティングの最有力候補」であると述べています*1。また、既に2010年にIBM社が実際にグラフェンを用いた高速なトランジスタを開発した、という報道もあります*2

けれども、ここで指摘しておきたいのは、グラフェンはバンドギャップが存在しない導体であるということです。つまり、電気を溜めておくことができない物質であるため、論理素子を製造するためには不向きです。確かに、グラフェンにバンドギャップを形成し、半導体として使用する手法も提案されています。けれども、産業的に有用な規模でグラフェン半導体を作成する方法は今のところ存在せず、また一定以上の量のグラフェンを簡単にスイッチングする手法もないため、シリコン製のウェハーを単純に炭素に置き換えて新しいプロセッサを製造することはできません。

実際に、2016年にIRDS(国際デバイスおよびシステムロードマップ)が発表しているロードマップ*3を見ても、予見できる将来においてグラフェン製の半導体素子が商用化される予測は立てられていません*4

そしてこれは、他の将来性が見込める物質についても同様であり、単一の指標で優れているというだけでは不十分で、論理素子に求められるさまざまな指標と制約条件を同時に評価しなければなりません。


2015年に発表された論文*5では、CMOSトランジスタ以外に論理素子として使用できる見込みがあるテクノロジーを評価しています。多数の素子の中でも、スイッチングエネルギーと速度の両方の観点から既存のCMOS (CMOS HP) よりも改善が見込めるテクノロジーは、ファンデルワールスFET(vdWFET) ただ1種類に限られています。

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もちろん、今後シリコンよりも高性能な半導体の素材が開発され、実用化される可能性を否定するものではありません。けれども、問題になるのはやはりタイムスパンです。(狭義の)ムーアの法則が終焉を迎えるより先に、つまり、ここ数年以内に新素材が開発され市場投入されなければ、拡張ムーアの法則にもとづいた計算性能の向上も停滞を迎えることになります。

カーツワイル氏の予測の一つの根拠は、拡張ムーアの法則が、少なくとも2045年まで途切れなく続いていくことです。たとえ短い期間であっても計算能力の向上が停滞すれば、カーツワイル氏の未来予測は修正を迫られることになるでしょう。