シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

収穫加速の法則批判 「未定義のパラダイム」

カーツワイル氏が未来を予測する根拠である「収穫加速の法則」ですが、彼がその「法則」を例証していると主張するグラフが、以下の「特異点へのカウントダウン」と名づけられたグラフです。
なお、本エントリにおいては、「収穫加速の法則」は「『パラダイムシフト』が発生する時間間隔の指数関数的な減少」 を意味するものとします。


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一見すると、この「収穫加速の法則」のグラフ上に描かれたそれぞれの事象は、対数グラフ上の綺麗な直線、すなわち指数関数的成長を描いているように見えます。けれども、注意して項目を見てみると、非常に問題のある表現がされていることが分かります。

カーツワイル氏は、何が「パラダイム・シフト」であり何がそうでないかを選択する基準を示していません。そのため、次の「パラダイム・シフト」のタイミングで一体何が発生するのかは明らかではありません。パラダイム・シフトの定義として、「ものごとを遂行するための手法や知的プロセスにおける大きな変化のこと*1」と述べられていますが、これは定量的ではなく非常に曖昧で、ほとんど何でも含むことができる定義です。

たとえば、「コンピューター」と「パーソナルコンピューター」の区別は、「生命の誕生」や「話し言葉」と匹敵する、別のパラダイムとして扱うほどに質的に異なるものなのでしょうか。
あるいは、逆に「絵画と初期の都市」や「電気、電話、ラジオ」を単独のパラダイムとしてまとめていますが、全て別個のパラダイムとして扱うべきものではないでしょうか。「絵画」は個人でも発明できますが、「都市」は多数の人間が協力しなければ成立せず、別種の「手法や知的プロセス」が求められるものです。また、電話 (有線) とラジオ (無線) の原理が異なるものである以上、一方が実用化されていても他方が使用されていない状況は十分にあり得ると考えます。動力の電気 (強電) と情報通信に使われる電信 (弱電) は、研究上も応用上も全く別の扱いが必要とされる分野ですから、これらも別のパラダイムとして描くべきです。

そして、生物学的現象、たとえば「ヒト科」の出現、「話し言葉」の獲得、「ホモ・サピエンス」や「ホモ・サピエンス・サピエンス」の出現は、グラフ上の単独の1点として提示できるほど不連続に分離した (descreteな) 出来事なのでしょうか。私は、これらはの現象は (進化論を前提とする限り) 何万年、何十万年にも及ぶ、漸進的な出来事であると考えています。

また、このグラフには、膨大な項目が書かれていません。

土器や青銅器や鉄器の使用、粘土板と楔形文字の使用は、なぜパラダイムではないのでしょうか? 古代官吏制の発達はパラダイムに含まれないのでしょうか? 現代まで続く哲学、論理学、数学的方法論を考案した、古代ギリシャ文明は? キリスト教の登場と修道院制度の確立は? (神学的議論のために古典ギリシャ・ローマ時代の書物や文化を保存し、結果として後世に伝える役割を担いました。) 紀元1世紀頃、中国で普及した製紙法は? (グーテンベルクの印刷術だけを取り上げるのは、あまりに西洋中心的ではないでしょうか。)

また、私の個人的な好みで付け加えるならば、ヨーロッパ世界が「暗黒の中世」に沈み込んでいた間、著しい科学的・技術的発展を遂げていたイスラーム世界を無視していることは、非常に不当な主張であると考えます。ここでは、イスラーム世界の科学的成果を1つだけ「代数学」を挙げておきたいと思います。ヨーロッパの「ルネッサンス」と呼ばれているものは、実のところアラビア語からの大翻訳時代とでも呼ぶべきものであり、代数学における3次方程式の解の公式「カルダノの公式」と呼ばれているものも、イスラーム世界では既に11世紀頃には発見されていました*2

また、歴史的事項だけではなく、発明年が明確に記録に残っている近現代のテクノロジーを取り上げてみても、「コンピュータ」と「パーソナルコンピュータ」がそれぞれ独立したパラダイムであるならば、「階差機関(機械式計算機)」、「真空管」と「半導体トランジスタ」の発明もパラダイムに含まれるべきではないでしょうか?電気の安定した研究を可能にした「ボルタ電池の発明」はどうでしょうか? あるいは、量子力学量子コンピュータは、将来の情報処理におけるパラダイムにならないのでしょうか?

これら全ての、人類文明における「ものごとを遂行するための手法や知的プロセスにおける大きな変化」とみなされるであろう事象が無視されています。全ての事象を盛り込んだグラフを描いてみれば、カーツワイル氏が主張する通りの一直線の指数関数的な成長は見られなくなります。

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このグラフのいくつかの点を恣意的に取り上げてみれば、「シンギュラリティは100年前に既に起きているはずだった」あるいは、次回で述べる通り「直近20年では成長が鈍化しており、遠い将来に渡ってシンギュラリティと呼べる現象は起こらない」と主張することも、どちらも可能です。


私のここまでの議論に対して、カーツワイル氏に反論するために、恣意的に歴史や科学的発見を取り上げているのではないか、と言う批判があるでしょう。けれども、その批判は正にカーツワイル氏にも当てはまるものです。彼は何がパラダイムであり、何がパラダイムでないのかを選択する明確な基準を示していません。パラダイムの定義が無い以上、収穫加速の法則を用いて次のパラダイムがいかなるものであるかを予測することはできません。

また、「収穫加速の法則」は反証可能性を欠いています。つまり、もしも今からおよそ30年後に、シンギュラリティと呼べるような現象が何ひとつ起こらなかったとしても、このグラフ自体は問題なく成立しているということです。グラフ上で過去のどこかにいくつか新しいパラダイムを挿入し、未来のその時点で開発された新たな技術を、グラフの先端に付け足せば良いのですから。

もちろん、人類文明が科学的・技術的知識を累積的に増加させていること、また将来も進歩が続き、何らかの科学的発見や技術革新があることは、疑いの余地がありません。けれども、仮にシンギュラリティが発生しなかったとして、30年後、100年後あるいは1000年後、同様に収穫加速の法則のグラフを描いてみたとしたら、どうなるでしょうか。


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未来のある一時期において同じグラフを描いてみれば、やはり、現在 (あるいは1世紀以内のごく近い将来) において、無限大へと向かうグラフが得られます。そして、不思議なことに、過去でも未来でも同様に、グラフ上のあらゆる時点において、ごく近い将来において無限大へと向かう指数関数のグラフを描くことができます。WIRED誌の創刊編集者であり、シンギュラリティ説とは異なったテクノロジーの未来像を考察しているケヴィン・ケリー氏は、次のように指摘しています。

もしも、ベンジャミン・フランクリン(昔のカーツワイルみたいな人)が1800年に同じグラフを描いたとしたら、フランクリンのグラフも、そのときの「たった今」の時点で、特異点が発生していることを示すだろう。同じことはラジオの発明のとき、あるいは都市の出現のとき、あるいは歴史のどの時点でも起こるだろう。グラフは [引用者注: 対数グラフにおける] 直線であって、その「曲率」すなわち増加率はグラフ上のどこでも同じなのだから。
「特異点はいつも近い」: 七左衛門のメモ帳


ただし、収穫加速の法則に関する上記の指摘はカーツワイル氏も認めており、別の情報を用いて同等のグラフを作成しています。けれども、私にはあまり説得力が高いようには見えません。結局のところ、パラダイムの定義が明確に示されていない状態でデータをいくら積み上げたとしても、次のステップで到来する「パラダイム」が何であるか、どのような形をしているかを議論することは不可能です。

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言うなれば、このグラフから予想される時間間隔で出現したものがすなわちパラダイムなのです。そう主張すれば、収穫加速の法則は原理的に反証されることはありません。

それゆえに、「収穫加速の法則」を用いて何らかの未来予測を述べることは不可能なのです。

*1:『ポスト・ヒューマン誕生』p.55

*2:Mathematics in medieval Islam - Wikipedia