シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

帰納的推論:(これまで)無限は存在しなかった

私たちが住む、現実の、この世界において、「無限大」は (これまで) どこにも存在しませんでした。(今までのところ) 無限は、ただ人間の頭の中、観念の中にだけ存在します。

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図: y=1/xのグラフ

 

「シンギュラリティ」の本来の意味を説明するために、シンギュラリタリアンがよく取り上げている反比例関数 y=1/x のグラフがあります。「ある数をゼロで割ると無限大=特異点が生じる」ということを示すものです。

けれども、「ゼロで割る」とは一体何を意味するのでしょう。

たとえば、ケーキを0人で分けたとして、ケーキが無限の大きさになるでしょうか。ゼロでの除算は、現実にどのような操作をするか定義できないだけであり、この世界にいきなり無限大が生じるわけではありません*1

物理学において、計算結果に無限大が現れる場合、それは理論の不備を示していると考えられています。一般相対性理論において、ブラックホールの質量が無限大に発散してしまうのは、おそらく量子効果を無視しているからです。量子力学一般相対性理論の統一理論が完成すれば、ブラックホールの質量が無限大に発散する問題は解決されると期待されています。

 

さて、シンギュラリティにはさまざまな定義がありますが、そのうちの一つに「テクノロジーの成長速度が (主観的に) 無限大になること*2」という定義があります。

けれども、私にとっては、無限大の速度でのテクノロジー成長が発生しないことは自明に感じられます。

なぜならば、これまで無限の速度で成長したテクノロジーは存在せずほとんどのテクノロジーは物理的限界のはるか手前で成長が停滞したからです*3

 

けれども、反論としてシンギュラリタリアンはこう述べています。「これまで、情報テクノロジーはムーアの法則に従って指数関数的に成長してきた。だから、成長が永続し速度が無限大に達する。」

 

この2つの両立しない主張を並べて比較してみると、実際のところ、私の懐疑的な主張とシンギュラリタリアンの肯定的主張は、どちらも同一の論理的な構造を持っていると言えます。つまり、どちらの主張も過去の (有限個の) 観察を元にして、未来を予測するものであるからです。

懐疑論者は、過去のムーアの法則の成長曲線を永遠に延長することはできないと主張し、一方で、シンギュラリタリアンは、過去のテクノロジーの成長を元に情報テクノロジーの成長を予測することはできない、と反論することができます。

どちらの側も、「過去そうであったから」ということを根拠に「これからもそうである」と主張するものです。

つまり、どちらの予測も論理的に正しく、同様に論理的な飛躍を含む、帰納的な推論であるということです。シンギュラリティ肯定派だろうと懐疑派であろうと同様です。

 

そしてこれは、何もシンギュラリティ論に限った話ではありません。一般に、科学法則はあらゆるものに適用できるという性質がありますが、人間が観察できるのはただ有限の事例のみです。

一体なぜ有限個の事象の観察から、あらゆる事象に適用される一般的な科学法則を述べることが正当化できるのでしょうか。そして、科学法則とはいかなる性質を持ち、科学と非科学を分かつ境界線は何なのでしょうか。

将来のエントリで、カーツワイル氏のシンギュラリティ論から少し寄り道をして、「科学法則とは何か」、「帰納的推論はいかに正当化されるか」を議論したいと考えています。

 

 

*1:ただし、これはカーツワイル氏も認めている通りです。 『ポスト・ヒューマン誕生』p.36

*2:齋藤和紀(2017) 『シンギュラリティ・ビジネス』p.30

*3:なお、シンギュラリティの定義を「『主観的に』テクノロジーの成長が無限に感じられる点」としても同様です。主観的だろうと客観的だろうと、無限の速度での成長は過去に存在していません。