シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

論文紹介:ナノテクノロジーの20年 科学の未来をどう語るか (リチャード・ジョーンズ)

本ブログでも過去に何度か取り上げている、イギリス、シェフィールド大学の物理天文学科教授でナノテクノロジーの専門家であるリチャード・ジョーンズ氏が、過去のナノテクノロジーおよび科学技術一般の将来予測に関する論説を IEEE Nanotechnology Materials and Devices Conference (NMDC) に投稿し、自身のブログで一般公開しています。過去20年間のナノテクにまつわる言説を振り返りその予測を検証し、また科学技術の将来予測を語ることの困難さを述べるものです。ここでの対象はナノテクノロジーですが、ジョーンズ氏自身が述べている通り、近年のあらゆる新興テクノロジーについても同様の議論が当てはまるものであるため、ここで一部訳して紹介したいと思います。

Between promise, fear and disillusion: two decades of public engagement around nanotechnology – Soft Machines


科学のコミュニケーターと教育者は、ナノテクノロジーのような新興テクノロジーについて大衆に話す際にはジレンマに直面する。ナノテクノロジーの可能性について話す時、必然的に、未来を予測することに関わらなければならない。確立された科学について語る時には、比較的に確実さをもって扱うことができる。けれども、テクノロジーの未来について話す場合には、我々は、必然的に未来に対する人々の希望と恐怖に関わらなければならず、また我々が語ることは我々自身の見方の色合いを反映する。我々のテクノロジーの未来についての議論は、容易に極端な見方が最も注目を集めてしまう。-- ユートピア的あるいはディストピア的なビジョンが。地に足の付いた評価をすれば、現実を反映していないものであってさえである。

予測に挑戦することは難しい。なぜならば、いかなる瞬間においても、未来は文字通り不可知であるからだ。古いジョークがある。これは残念なことに現在でも正しいのだが、「核融合は20年後の未来である。そして常にそうあり続けるだろう。」というものだ。

ここでジョーンズ氏は、既存の科学やテクノロジーを語る場合と、未来の科学やテクノロジーについて語る場合には、異なる心構えと方法論が求められることを指摘しています。もちろん、ここには未来を知ることはできないために、未来予測は経験的な証拠を持ち出して決着を付けられないという理由もありますが、更に大きな理由として、未来のビジョンは人々の感情を強く刺激する傾向があり、また未来を語る科学者・技術者自身の感情も強く反映したものとなるからです。

20年間の科学コミュニケーションとパブリック・エンゲージメントを経て、おそらく我々は何らかの一般的な教訓を学べる場所にいるだろう。未来の教育とナノテクノロジーアウトリーチのみならず、ほかの新興テクノロジーにおいても、我々はこれらの教訓を心に留めておくべきである。さもなければ、新しい分野 --合成生物学、量子技術、計算論的神経科学、人工知能-- においても、同じ誤りが犯される危険がある。


これら新興テクノロジーの共通点としては、「約束の経済」と呼ばれるものの中で機能するという点が挙げられる。現在における資金供給は、必然的に、未来に関する主張によって正当化されなければならない。そして、これらの主張はあまりに容易く過剰誇張されてしまう。


これらの主張は、経済的インパクトであることもあるし、--3兆ドルのマーケット-- あるいは持続可能エネルギーや薬剤といった分野での革命と言われることもある。なぜ研究に対する資金供給が必要であるのか、何らかの議論ができることは不可欠であるし、我々がすることの影響を予期するための努力は健全である。しかし、おそらく不可避なのかもしれないが、これらの主張された利益のバブルを膨らませる不健全な傾向が存在する。


科学者は、これらの主張が助成金申請や論文には不可欠だと感じており、またメディアは壮大で根拠のない主張を注目を集めるために必要とする。研究の社会的・倫理的な側面を検討するプロセスや、パブリック・エンゲージメントに従事することでさえ、最もスペキュレーティブな可能性に対して信憑性を与える効果を持つことがある。


ナノテクノロジーのような分野では、既存技術の比較的漸進的な開発が、かなりラディカルな可能性と共存しており、この共存が緊張を導いている:将来の約束は、壮大なビジョンと壮大なメタファーを元に売り込まれる。しかしそのアチーブメントは、大部分が過去からの延長線上にあるテクノロジーに基づいている。

未来を語る上での本質的な困難さに加えて、更にこの問題を複雑にする傾向があります。近年では、研究への助成や企業への投資において、しばしば科学者・技術者自身が途方もなく壮大な未来のビジョンを主張する場合があることです。これには様々な複合的要因があり、項を改めて書きたいと思いますが、現在の科学研究・技術開発の場では、将来の可能性への過大な売り込みは常態化しています。

すべてのバブルにまつわる問題は、当然、果たされなかった約束に現実が追い付くということだ(…)、またこんな環境では、人々は、いかなるテクノロジーであれ直面するハードな制約の現実をあまり許容してくれなくなる。"約束" を過剰摂取した場合、資金供給者、政府関係者、投資家や大衆の間に幻滅が生じる。これは、テクノロジーが可能とするであろう真正のアチーブメントに対する信用を失なわせさえするかもしれない。たぶん、革命的イノベーションに対する絶え間ない注目によって、漸進的なイノベーションの本当のアチーブメントに対して盲目的になっているのかもしれない。

このような途方もない将来のビジョンが起こす問題としては、当然、科学者や技術者の発言が「オオカミ少年」化するという点が挙げられます。また、当該分野そのものに対する信頼を失なわせ、より微妙で長期的な投資を必要とする分野への注目を削ぐという問題もあります。

一般に流通する、科学界のコンセンサスを反映していない壮大なビジョンに対するアプローチとして、ジョーンズ氏は単に無視するのでも却下するのでもなく、敬意を持って応対することを提唱しています。

ナノテクノロジーの事例では、エリック・ドレクスラーが提唱したナノテクのスペキュレーティブなビジョンにいかにして関わるべきか、という特有の問題が存在する。そのようなビジョンが、妥当なタイムスケールの範囲で実現可能であるとみなしておらず、科学界のコンセンサスを反映させたいと望む者にとっては、3つのアプローチが存在する。


最初のアプローチは、単純にそれを無視するというものだ。ナノテクノロジーを扱う一般向け書籍や記事のなかには、ドレクスラーをこのテーマの歴史から排除するものもある。これは満足のいく方法とは言い難いと思う --一般大衆はこれらのアイデアに激しく晒されているため、省略は混乱を招くかもしれない。2つ目のアプローチは、科学の権威に訴えてそれらを却下するというものだ。晩年のリチャード・スモーリーによるコメントが、しばしばこの方法として用いられる場合がある。これまで以上に専門家の権威に対して疑問が抱かれるようになった世界では、これはサイエンスコミュニケーションの賢明なアプローチではないように思える。


私自身のアプローチ、2004年の書籍『ソフト・マシーンズ』、多数の公開講義、ブログ投稿や記事で取っている方法は、その主張に正面から向き合って、必要であれば技術的ディテールにも関わり、またその主張の支持者にも敬意を払う(そうあることを願う)ことである。これは、科学の性質をより誠実に反映しているように私には思える。

この記事では取り上げませんでしたが、ナノテクノロジーに関する過去の予測とその評価も一読の価値があると思いますので、ぜひ原文を確認してみてください。

関連項目

ジョーンズ氏は、専門分野のナノテクだけではなく、科学コミュニケーション・科学技術政策のあり方についても提言しており、シンギュラリタリアニズム/トランスヒューマニズムについても、やや懐疑的な立場から考察した小冊子を公表しています。

Against Transhumanism – the e-book – Soft Machines

過去に私が紹介したジョーンズ氏による記事です。