以下は、ウィリアム・パターソン大学哲学教授のエリック・スタインハート氏の記事 "The Singularity as Religion" の翻訳です。
宗教としてのシンギュラリティ
シンギュラリティにまつわる文化と言説のほとんどは、宗教的であると思う。この考えは、部分的には、デイヴィド・ノーブルの本『The Religion of Technology』とロバート・ゲラチの『Apocalyptic AI』を読んだことに基づいている。どちらも素晴しい本である。また、私はテクノロジーと宗教に関する書籍や記事のリストを編集して、ウェブサイトに掲載している。
宗教としてのシンギュラリティは、完全に悪いものではないかもしれない。宗教はいろいろな形でポジティブな力となりうる。少なくとも、シンギュラリタリアニズムは新たなタイプの興味深い宗教運動となりうるだろう。
なぜシンギュラリティは宗教であると考えるのか説明しよう。インターネット上で見かけた、なぜシンギュラリティは宗教ではないのかという10件の主張に対して、反論を提示したい。
(1)シンギュラリティは、キリスト教的でもアブラハムの一神教的でもない。
私の反論は、多くの宗教はキリスト教でも一神教でもないということだ。シンギュラリティは新たな宗教運動である。 - キリスト教や他の一神教のようである必要はない。宗教学者にとっては、たくさんのキリスト教的要素が含まれていることはかなり明白である。それでも、シンギュラリティは完全に新しい形の宗教的な集団活動だと思う。テクノロジー (特にコンピュータ) を聖性の中心に据える、アニミズムの一種にも見える。
(2)シンギュラリティは、無神論である。
私の反論は、宗教は無神論的でもありうるということだ。無神論とは神 - 主にアブラハムの神を意味する - の否定だと私は捉えている。[唯一の] 神を信じることなく、宗教的になる方法は多数存在する。 (たとえば、ネオプラトニズム、自由主義神学派のプロテスタント、仏教、ジャイナ教、儒教、道教、あるいはもっと小規模な運動のリーダーなどを考えてみてほしい) つまり、ほとんどのシンギュラリタリアンが「神」を信じないと主張しているという事実は、新しい宗教運動を彼らが作りつつあることを否定するものではない。それどころか、シンギュラリタリアンは旧来のネオプラトニズムを復興させているとも考えられる。超AGIは、プロティノスの言う<ヌース>と非常に非常によく似ている。そして、シンギュラリタリアンの書くものの中では、西洋のアニミズムの古い伝統がよみがえっているようにも見える。物質が精霊で満たされる。命を持たぬ物質が覚醒し、精神体へと、純粋なコンピュートロニウムへと変貌するのである。*1
(3)シンギュラリティは、擬人的な投影[anthropomorphic projection]ではない - つまりは、人間に似た神を置かない。
私の反論は、神々は明らかに人間的である必要はないということだ。ネオプラトニズムの<一者>は完全に抽象的な存在であり、心や人格といったものを何も持たない。もちろん、私がこの反論を書いた理由は、多くのシンギュラリティ活動家の主張によれば、将来現れる最初の超AGIは人間によって構築された精神と考えられているからである。そのため、超AGIは人間に似たものであるかもしれない。あるいは、シンギュラリタリアンの聖なる存在は、単に純粋な抽象的理性であるかもしれない。純粋な理性に対する崇拝はありえるだろう。- 特に、それが何らかの具体的な実体、すなわち超AGIとして受肉している場合には。
(4) シンギュラリティは、いかなる種類の神の偶像も置かない。
私の反論は、シンギュラリタリアンがどれほど自分は世俗的であるとは言っても、シンギュラリティの中心には二律背反的な聖性 (ルドルフ・オットーの意味で*2 )が位置しているということだ。未来の超AGIは、一神教的な意味での神である必要はない。とは言っても、聖なる存在である。それは超越的な慈愛に満ちた存在かもしれないし、あるいは超越的な怒りに満ちた存在であるかもしれない。極端な善 (新しい黄金時代の幕開けとなる) かもしれないし、極端な悪 (人類を絶滅させる) かもしれない。シンギュラリティ(あるいは超AGI)は、劫罰もしくは救済をもたらすのだ。多くのシンギュラリタリアンが、シンギュラリティによって自分自身の永遠の生命がもたらされると考えているように見えるのは興味深い。(死者が復活すると信じている者すら存在する*3 ) タイム誌の表紙が全てを物語っている。「2045: 人間が不死になる年」
(5) シンギュラリティは、キリストの再臨ではない。
私の反論は、シンギュラリタリアニズムは
(6)シンギュラリティは、信念ではなく理性に基いている。
私の反論は、理性と信念はまったく矛盾しないということだ。信念の一つの定義は、目に見えないもの - 我々が経験的にアクセスできないもの - を信じることである。そのような存在を信じることは理性的でありうる。[数学的]プラトン主義者は、完全に理性的に、純粋な数学的対象が実在すると信じている。または、様相実在論者は、他の可能世界が存在していると完全に理性的に信じている*5。カントやヘーゲルといった旧来の哲学者にとって、理性は世界に関する経験的な構造を超越している。あるいは、「理性的である」とは、単に論理的なシンボル操作に従事しているというだけなのかもしれない。もしそうであるなら、アンセルムによる神の存在証明は、純粋な理性による傑作といえるだろう。トマス・アクィナスの5つの道*6も理性的である。アルヴァン・プランティンガの様相存在論は、極めて理性的である。また、オーギュスト・コントは理性の信仰を打ち立てようとしていたことも付け加えておこう。
(7) シンギュラリティは、迷信ではなく科学に基づいている。
私の反論は、シンギュラリティについて私が読んだもののほとんどは、科学的データや現在の技術的アチーブメントを遥かに超えており、極めて非科学的に見えるまでに達しているということだ。たぶん、いつの日か、人間の力を遥かに超える汎用人工知能は作られうるだろう。けれども、科学者や技術者の大多数は、シンギュラリタリアンの途方もない主張に対してかなり懐疑的であるようだ。シンギュラリタリアンの主張のうちで、経験的にテストできる主張はあるだろうか? 検証可能、あるいは反証可能だろうか? ただ遠い将来においてのみ可能である。これはジョン・ヒックが呼ぶところの「終末論的検証 [eschatological verification]」*7 である。しかし、これはまったく科学的ではない。ここで興味深いポイントは、多くのシンギュラリタリアンは現実の科学研究にさほど興味を持っていないように見えることだ*8 - たとえば、査読付き論文誌に論文を投稿するなど。シンギュラリタリアンの研究プログラムなどというものは、標準的には学術的にも商業的にも存在していない。ファイマンが呼ぶところの「カーゴカルトサイエンス」*9のように見える。また、シンギュラリティ活動家は、独自バージョンのパスカルの賭けを持っているようだ。シンギュラリティは圧倒的な変革であるため、起こる可能性がどれほどごくわずかであったとしても、その報奨あるいは罰は極めて甚大となるだろうから。
(8) シンギュラリティは、超自然的存在に関わる宗教ではなく、自然的である。
私の反論は、宗教は自然的でもありうるということだ。自然主義的信仰と呼ばれる興味深い運動さえ存在している。シンギュラリティは、ある種の技術主義的[technologism]宗教である。テクノロジーが聖性、神聖さの中心に位置する。私がここで念頭に置いているのはデュルケームやエリアーデである。もちろん、この反論の発端となったのは、シンギュラリタリアンにとって、未来の超AGIは、何らかの物質で作られているにもかかわらず超自然的な力を持つかのように捉えられているという事実である。
(9)シンギュラリティは、人間が作るものである。何らかの神によって作られるのではない。
私の反論は、既存宗教の大部分でも、人間が天国へのブートストラップとしての役目を負うと言われているということだ。旧約聖書のなかには、さまざまなテクノロジーを作るための精巧な指令がある。契約の箱、幕屋[移動式の礼拝所]、教会。もしも、これらの装置が完全に正しく作られたならば、神が降臨し人々の前に姿を現すのである。ある種のシンギュラリタリアンが言うには、人間が最初のAGIを実装した後、AGIは再帰的に自己改善を行うのだという。これは同様のパターンにあてはまる。我々が祝福を受けるに値すると証明するための、基本的な仕事に労力を注ぐ。すると、聖なる存在が現れ世界を支配するのである。
(10) シンギュラリティは、伝統的宗教のようには見えない。- 儀式も、聖職者も、聖典も、教会もない。
私の反論は、実際のところ全て存在しているではないか、ということだ。- すべてはゆっくりと形成されつつあるのだ。あるシンギュラリティのグループは、科学研究機関、政治シンクタンクや企業というよりは、教会のように見える。結局のところ、彼らは実験を行うこともなく、査読付き論文を書くことも、立法機関に影響を及ぼそうとすることも、あるいは製品やサービスを開発するわけでもないのだから。経典について言えば、ビッグネームの存在は明白だと思う。シンギュラリティの「活動家」や「エヴァンジェリスト」も存在する。シンギュラリティ活動家の中には、とてもカリスマ的な人格を持った人もいる。シンギュラリタリアンが行なっていることの大部分は、経験的な根拠を持つ外挿と言うよりは、未来に関する預言じみた主張であると言える。宗教が儀式を必要とするかどうかは分からない。それでも、シンギュラリタリアンが明確な儀礼や儀式を作り出す日は簡単に想像できる。法的な利益を得るため、宗教団体としてふるまいさえするかもしれない。子供たちはシンギュラリタリアンの聖職者のもとで結婚し、あるいはシンギュラリタリアン式の葬儀で埋葬*10される人もいるかもしれない。ここでもまたコントのことが思い出される。 - 彼は自身の理性の宗教に向けた儀礼を作り上げた。それには、教義、聖者、宗教的カレンダーなどが含まれている。人間性への信仰から超人的理性の信仰へと至る道のりは、短いものであるのだろう。
何故シンギュラリタリアニズムは新しい宗教運動であると考えるのか、10個の理由を挙げた。ここではクリフォード・ギアツによる、宗教に対する優れた (しかし非常に抽象的な) 定義*11を考えていることを付記しておきたい。そして、私が思うに、シンギュラリタリアニズムはギアツが言う宗教の定義にあてはまる。(しかし、その議論は別の機会に譲る)
私の主要な関心は以下の通りである:もしもシンギュラリタリアニズムが新しい信仰運動であるとしたら、それをどのように扱うべきだろうか。それはおおむね良いものであろうか? ある種の啓蒙的信仰なのだろうか? 旧来のアブラハムの宗教に対する、素晴しい代替になりうるだろうか?あるいは、抑圧的な権威主義のありふれた悲劇的パターンへと落ち込んでいくのだろうか? 時間だけが教えてくれるだろう。しかし、シンギュラリティ教についてもっと詳細に検討してみる価値はあると思う。
Apocalyptic AI: Visions of Heaven in Robotics, Artificial Intelligence, and Virtual Reality
- 作者: Robert M. Geraci
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*1:訳注:参照 カーツワイルの「宇宙の覚醒」とは何か - シンギュラリティ教徒への論駁の書
*2:訳注:ルドルフ・オットーはドイツの宗教学者。彼は、宗教的な崇拝対象には、人を恐怖させる性質と魅了させる性質が同時に備わっていると観察した。
*3:訳注:たとえば、カーツワイルは早逝した父親の復活を望んでおり、また近い将来、遺伝子工学とナノテクノロジーを人工知能が利用することで、実際に死者を復活させられると主張している 特異点により人類は不死になるだけでなく、死者もよみがえる? - YAMDAS現更新履歴
*4:訳注:西欧における社会運動、共産主義などの背景にもキリスト教終末論の影響が見られることについて、たとえば歴史学者のノーマン・コーンが論じている。
*5:訳注:分析哲学における「可能世界論」とは、様相(必然性、偶然性や可能性)を論理的にうまく扱うための概念…なのだが、そのような「私たちの世界とはちょっとだけ異なる無数の世界」が、文字通りの意味で、実際に存在すると唱える哲学的立場が存在する。デイヴィド・ルイスが有名
*7:訳注:死んだ後ならば来世が存在するかしないか分かる、世界の終末が来てみれば終末予言が正しかったか分かるといった、「その時になれば検証可能」という主張を指す。ジョン・ヒック自身も神秘体験を経験した神学者であり、科学的な立場からキリスト教の終末預言を擁護するため、預言も検証可能であると主張した。当然、これには神学・科学哲学双方の立場から批判もある。
*8:訳注:シンギュラリタリアンによる現実の研究の軽視については以下を参照 翻訳:カーツワイル氏による科学論文の不正確な引用 - シンギュラリティ教徒への論駁の書
*9:訳注:科学の外観に似せただけの疑似科学的主張。http://calteches.library.caltech.edu/51/2/CargoCult.pdf (訳は『ご冗談でしょう、ファインマンさん』にも掲載。)
*11:訳注:ギアツによる宗教の定義は次の通り。「宗教は、象徴の体系であり、人間の中に強力な、広くゆきわたった、永続する情調と動機づけを打ち立てる。それは、一般的な存在の秩序の概念を形成し、そしてこれらの概念を事実性の層をもっておおい、そのために情調と動機づけが独特の形で現実的であるように見える」