シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

翻訳:カーツワイル氏による科学論文の不正確な引用

以下はイギリス、シェフィールド大学物理学科教授リチャード・ジョーンズ氏のブログ Soft Machines の記事 "Brain interfacing with Kurzweil" の翻訳です。

シンギュラリティ大学におけるレイ・カーツワイル氏のやや誇張された計画について [訳注:ジョーンズ氏の過去記事コメント欄にて] 進行中の議論において、私はもう一度彼の本『シンギュラリティは近い』を読み返すように薦められた。また、ダグラス・ホフスタッター氏のやや侮蔑的なコメント、ガーディアン紙上で公表され私も以前の記事で引用した文について、その全ての文脈を見返すようにも薦められた。ホフスタッター氏の発言は、このインタビューで読むことができる。[リンク切れ]

 

「それは確実で優れたアイデアと狂ったアイデアの奇妙な混合物である。まるで、素晴しい食事と犬の排泄物を混ぜ合わせ、何が良くて何が悪いものであるか見分けられないようにしたもののようだ。それはゴミと良いアイデアの密接な混合物であり、その2つを分離することは非常に難しい。なぜならば、彼ら [ハンス・モラベックとレイ・カーツワイル] は賢い人たちであり、馬鹿ではないからだ。」

 

もう一度この本を見返してみると、ホフスタッター氏の指摘は適切だったということは明白である。難点の1つは、カーツワイル氏は現在の科学技術開発を数多く参照していることであり、ほとんどの読者はカーツワイル氏の技術開発に関する説明が正確であると信じていることだろう。しかし、あまりにも頻繁に、カーツワイル氏が論文から引き出した結論と、実際に論文が述べていることの間には大きな乖離が存在しているのだ。

これは、以前私の記事で説明した「約束の経済 (The Economy of Promises)」の極端な事例であろう。つまり、「将来のあいまいな可能性が、近い将来における確実な結果へと変換されてしまう」というプロセスである。

ここでは、ランダムに選択したものではあるが、重要な例を挙げよう。

 

カーツワイル氏の予測において、2030年には(私の版ではp.313) [日本語版 『ポスト・ヒューマン誕生』p.404]「ナノロボット・テクノロジーは、現実そのもの、完全に見る者を取り込むヴァーチャル・リアリティ空間を作りだす。」と予測されている。この予測の根拠は何だろうか。「既にニューロンと双方向で情報伝達する電子デバイスを作る技術があり、それは直接ニューロンと物理的に接触する必要はない。たとえば、ドイツのマックス・プランク研究所の科学者が開発している「ニューロントランジスタ」は、近くのニューロンの発火を検出するか、あるいは、発火を起こしたり抑止したりできる。これは、電子工学に基づいたニューロントランジスタニューロンの間での双方向の情報伝達に等しい。」

この主張には脚注が記されており、科学文献に対する印象的な参照が示されている。唯一の問題は、参照された文献を読まないことには、カーツワイル氏が述べていることと、研究者が実際に行なったことが食い違っていると理解できないことだ。

「マックス・プランク研究所の科学者」とは、ペーター・フロムヘルツ氏を指している。彼は、神経細胞と電子デバイス -正確には電界効果トランジスタ(FET)- とのインターフェイスを積極的に研究している。私はこの研究について以前の記事 -脳チップ- で議論した。カーツワイル氏が引用している論文は、ウェイス氏とフロムヘルツ氏によって発表された論文である。(アブストラクト)

フロムヘルツ氏の研究では、確かにニューロントランジスタの双方向伝達が実証されている。しかし、明らかに、これはニューロンとの物理的な接触を必要としない方法ではない。ニューロンは、FETのゲートと直接接触している必要がある。また、これはin-situ [対象のトランジスタ上その場] でニューロンを培養することによって実現されている。つまり、この方法は特別に培養された2次元のニューロン網のみにしか使用できず、実際の脳に適用できる方法ではない。この方法がin-vivo [生体内] で機能するかは実証されておらず、実際にこの方法を生体で検証することも非常に困難だろう。

フロムヘルツ氏自身が述べている通り、「もちろん、バイオ電子ニューロコンピュータと電子的人工神経の夢想的な希望は避けがたいもので、また刺激的なものでもある。しかし、われわれは多数の実際的な問題を無視してはならない。」

(後略)

 

もちろん、カーツワイル氏は研究者ではなく、また彼の本は科学論文ではなく将来の予測と夢を記述したものであるため、論文の引用が不適切であるからといって直ちに信頼性が失なわれるということはありませんが、この主張がやや誇張めいたものであることは明白でしょう。

実際のところ、私自身でさえ、この種の恣意的で不正確な科学論文の引用による被害を受けたことがあります。

ネット上の有象無象の (消極的) シンギュラリタリアンから吹っかけられる議論を読んで私が奇妙に感じるのは、彼らの多くが自分自身で研究開発を進めるどころか公表された研究成果に自身でアクセス・読解し、調査する最低限の科学的素養すら欠いており、そもそも実際の科学技術研究のあり方と方法論に対してあまり関心も敬意も払っていないように見えることです。

おそらく彼らは、自分の希望的観測を満たす妄想の材料としてしか科学技術を見ていないのだろうと感じられます。

GNR革命: 生命、物質、情報

最近のシンギュラリティに関する議論ではあまり注目されることはありませんが、カーツワイル氏は、コンピュータと人工知能の進歩のみによってシンギュラリティという事象が発生すると主張しているわけではありません。

彼がG・N・Rと呼ぶ分野、すなわち遺伝子工学 (Genetics)、ナノテクノロジー (Nanotechnology*1 ), ロボティクス (Robotics*2 ) の3つの分野が同時並行で指数関数的に発展していくことによって、人間と社会の革命的な変化が進んでいくのだと主張しています。

以前のエントリで私が指摘した通り、カーツワイル氏が主張するあらゆるテクノロジーの指数関数的成長は現在のところ実証的には観察できず指数関数的に成長しているものは情報テクノロジーに限られています。けれども、ここでは遺伝子工学は生命を、ナノテクノロジーは物質そのものを情報テクノロジーの配下に置き、指数関数的な成長を発生させようとする試みであると位置付けることができるでしょう。

ただし、ここで私は遺伝子工学ナノテクノロジーに関して、あまり詳細に取り上げるつもりはありません。

人工知能に関するカーツワイル氏の将来予測においては、「拡張されたムーアの法則」と「ヒトの脳のニューロンシナプスの数」という、荒っぽくはあっても定量的な根拠が一応存在していました。けれども、遺伝子工学ナノテクノロジーの研究に関しては実証的な将来予測の論拠は存在しません。ただ「あらゆるテクノロジーが情報テクノロジーと融合する」という特に根拠のない信念をもとに、いずれ指数関数的な成長が始まると述べて、その原理をもとにして2005年当時の研究成果から将来への外挿を述べているのみです。この2つの分野で、実際に何が指数関数的に成長しているのか、どのような原理によって情報テクノロジーと融合するのか、いつ指数関数的な成長が開始されるのか、などはあまり明確に示されていません。

よって、ここで敢えて取り上げる必要がある論点はそもそも多くありませんが、いくつかの技術と将来予測の妥当性、また、ケヴィン・ケリー氏が思考主義と呼ぶ考え方、すなわち「知能が高い存在は、あらゆる問題を即座に解決することができる」という信念について検討してみたいと思います。

*1:ここでは分子レベルで物質を操作・製造する分子ナノテクノロジー Molecule nanotechnology (MNT) ないし分子機械を意味する

*2:ここでは単なるロボットではなく意識を持つ"強い"AIを指す

知能爆発派における超知能の出現について

シンギュラリティ論における重要な論点は、ひとたび汎用人工知能が作られると、何らかの形で「超知能」が発生し、それが科学技術や社会を高速で変化させることによって、予測不能かつ断絶的な進歩が起きるという仮定です。

前回のエントリでは、主にカーツワイル氏の説である「収穫加速派」における超知能について検討しました。


今回は、残りの「事象の地平線派」および「知能爆発派」における超知能の出現について扱います。この2つの派閥に分類されるシンギュラリティ論においては、だいたい以下のようなプロセスを通して「シンギュラリティ」が到来すると主張されています。

  1. 超知能体の出現
    テクノロジーの進歩により、何らかの「人間よりも優れた超知能」を持つ存在が作り出される。
  2. 超知能体による超々知能体の設計
    「人間よりも優れた超知能」を持つ存在は、「自身よりも更に優れた超々知能」を設計し、作り出すことができる。
  3. 知能爆発と断絶的な進歩
    2.のプロセスが無限に繰り返され、超知能体が急速かつ自律的に成長することによって超越的な知能が出現し、現在の人間には理解不能で予測不可能な断絶的な進歩がもたらされる。

(実際のところ、「シンギュラリティ論」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、カーツワイル氏の説ではなくヴァーナー・ヴィンジ氏らが唱えたこちらのタイプではないでしょうか)


この一連の議論には、私にはあまり自明ではない仮定が含まれているように見えます。人間や人工知能が、自分自身よりも更に知能の高い人工知能を作り出すことが可能である、という仮定です。シンギュラリティに関する議論においては、この仮定は当然の前提として扱われていますが、実証的にも論理的にも、この仮定が成立するかどうかは検討する必要があります。

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収穫加速派における超知能の出現について

シンギュラリティ論における重要な論点は、ひとたび汎用人工知能が作られると、何らかの形で「超知能」が作られ、それが科学技術や社会を高速で変化させることによって、予測不能かつ断絶的な進歩が発生する、という仮定です。

なお、この超知能に関する議論においては、以前に私が取り上げたユドコウスキー氏の分類における「事象の地平線派」および「知能爆発派」と、主にカーツワイル氏が唱える「収穫加速派」のそれぞれに対して別の議論が必要となります。

ここでは、まずカーツワイル氏の「収穫加速派」について扱います。

 

カーツワイル氏は「シンギュラリティ」を「生物学的な人間の脳の限界を、機械と統合された超越的な知能が超えていく点」とイメージしており、それは2045年に発生すると考えられています。

以前にも取り上げた通り、カーツワイル氏は、汎用人工知能の設計と実装について何ら具体的な方針を示していませんでした。ゆえに、2045年に出現するとされる「超知能」に関しても、それがどの程度のもので、いかなる性質を持つのかについても具体的な説明はありません。

「1年間に創出される知能は、今日の人間のすべての知能よりも約十億倍も強力 (パワフル) になる」という記述はありますが、実際のところ、この文章の意味は私にはよく理解できません。


カーツワイル氏が、人工知能に関する時期予測の前提としている仮定は、次の2つのものでした。

  • 「拡張ムーアの法則」による計算能力のコスト効率の指数関数的な成長が、今後も継続されること
  • 大脳新皮質のリアルタイムシミュレーションまたはエミュレーションに必要な計算力の見積り

この2つの仮定に基いて、カーツワイル氏は、2045年には1000ドルで購入できるコンピュータにより100億人の知能を再現できるようになる、と主張しています。つまり、ここで想定されているのは、知能の質的な拡大・向上ではなく、あくまで (人数的な意味での) 量的な拡大に過ぎません

(拡張) ムーアの法則の成立や脳のエミュレーション・シミュレーションの実現可能性について、カーツワイル氏の根拠が薄弱であることは既に延々と述べてきた通りです。けれども、それらのことを棚に上げて、汎用人工知能が実現すると仮定したとしても、なお超越的な知能が出現するという主張の根拠は全く存在しないように見えます。ここで言われているのは、突き詰めれば知能の頭数が増えるということでしかないからです。

もちろん、量的変化が質的変化に転換する可能性は、完全に無いとは言い切れません。けれども、ネズミを何匹集めても群れ全体の知能は向上せず、ゴリラをいくら集めても人間の言語を理解できるようにならないのと同様に、人間のシミュレーションをいくら大量に高速で並列に動作させたとしても、人間を超える超知能が発生すると考える理由はありません。(カーツワイル氏は、亜光速での宇宙飛行などを可能にするような、全く新しい物理法則を発見できる、文字通りの意味で質の異なる「超知能」を想定しているのですから)

はっきりと言えば、カーツワイル氏の超知能に関する主張は、妄想、あるいは良く言ってもせいぜいが願望というべきものであり、全く科学的な考察に耐えないものであると言わざるを得ません。

ジェフ・ホーキンス氏のシンギュラリティ観

以前の記事で、私は2種類のシンギュラリティ、すなわち人間を超える超知能が作られる時と、超知能がテクノロジーを高速かつ断絶的に発展させる時を区別しました。

 

私は、第一のシンギュラリティは起きてもおかしくはない (ただし時期は分からない) けれども、本来の意味でのシンギュラリティというような事象が起きることは全くありえない、と考えています。

実際のところ、いわゆる汎用人工知能、人間と同等の人工知能の実現を目指し、研究開発に従事している人であっても、同様の見方をしている人は珍しくありません。

その中の一人が、ジェフ・ホーキンス氏です。ホーキンス氏はPDA (携帯情報端末) を開発したパーム社の共同創業者ですが、現在はGoogleに所属しているほか、自身で創業した人工知能企業であるヌメンタ社の代表を務め、人工知能に関する研究開発をしています。ホーキンス氏が開発したアルゴリズム「階層型時間メモリ (HTM)」は、汎用人工知能の研究に関して名前が挙がることも多いため、知っている人も多いかと思います。

さて、そのホーキンス氏は、2008年に科学雑誌IEEE Spectrumのシンギュラリティに関する特集の中で、以下のように発言しています。 

シンギュラリティを、『知能を持つ機械が知能を持つ機械を設計することで、極めて知能の高い機械が短時間の間に出現する時点、つまり、指数関数的な知能向上が起きる時』と定義するのならば、それは決して起こらないだろう。知能の大部分は、経験と訓練によって定義されるもので、脳の大きさやアルゴリズムによるものではない。またそれはソフトウェアを書くだけの問題でもない。知能を持つ機械は、人間と同じく、特定の領域での専門的なノウハウを訓練する必要がある。それには時間を要し、また機械に持たせようとする特定の知識に対して計画的な注目が必要となるだろう。

私は、テクノロジーに対して『シンギュラリティ(特異点)』という用語を使うことは好みではない。特異点とは、何かの値や指標が無限大となり、物理法則がもはや適用できない状態となることである。たとえば、ブラックホールの中心部における時空の曲率のように。私の知る限り、生物学やテクノロジーにおいては”特異点”は存在しない。たとえ、人間が新しいウィルス(生物学的なものであれ非生物的なものであれ)を創造し、地球上の生命全てを高速で死滅させたとしても、それはシンギュラリティではない。とても不幸な出来事であるけれども、それは特異点ではない。

『シンギュラリティ』という用語が人工知能に対して使われる時には、人工知能が自分自身よりも更に賢い人工知能を作ることができるようになり、人工知能の知能が指数関数的に成長することによって、知能が無限の (あるいは少なくとも極めて巨大な) 「特異点」に至ることを意味している。この考え方は、知能の本質に対する素朴な理解による信念に基いている。
アナロジーとして、自分自身よりも高速なコンピュータを設計できる (チップ、システムやソフトウェア) ようなコンピュータを想像してみよう。そのようなコンピュータが存在したら、無限に高速なコンピュータや、あるいは人間が作るいかなるコンピュータよりも高速なコンピュータが作られるだろうか。そんなことはない。そのようなコンピュータは、しばらくの間は改善の速度を加速させられるだろうが、結局のところ、コンピュータの大きさや速度には制限が存在する。我々も同じ場所に落ち着くだろう。多少は高速化できるかもしれないが、シンギュラリティは存在しない。

指数関数的な成長には、指数関数的な資源の消費 (物質、エネルギーや時間) を必要とする。そして、消費できる資源には常に限りがある。なぜ、人工知能に関しては限界が無いと考えるのだろうか? 我々は、人間よりも「知的な」機械を作るだろうし、それはすぐに起きるかもしれない。けれども、それはシンギュラリティではなく、知能の爆発的成長も存在しない。今日のコンピュータと同じように、未来の人工知能も多数の異なった問題に適用されるために、多様な形と種類を持つことになるだろう。

知的な機械は、感情的にも物理的にも、人間に似たものである必要はない。極めて知的な機械は、人間が持つような感情を備えている必要はない。我々がそれを意図しない限りは。ある日、人工知能が『目覚め』、『私の創造主を奴隷にしてやろう』と言うようなことは起こらない。同様の懸念は蒸気機関の発明の際にも表明されていたが、そんなことは起こらなかった。知的な機械の時代は始まったばかりである。過去のあらゆる技術的革命と同様に、多くの人が参加し、テクノロジーが改善されるにつれて加速していくだろう。それでも、シンギュラリティや、テクノロジー自体が我々から逃げ出していく時などというものは存在しないだろう。

Tech Luminaries Address Singularity - IEEE Spectrum

人間至上主義と進化論について

私がシンギュラリティに対して懐疑的な主張を唱えていると、反論者から「お前は人間至上主義者だ」という形のレッテル貼りめいた非難を受けることがしばしばありました。

この種の主張が何を意図しているのかよく理解できていませんでしたし、単なるレッテル貼りに対して回答する意味もないので無視していましたが、ここでは少しだけこの種の主張について検討してみます。

さて、シンギュラリティ論に対する反対者を「人間至上主義者」と呼ぶ人は、以下の2つのことを前提としているように見えます。

  1. あらゆる観点において、人間より知能の高い超知能が存在することは可能である
  2. それゆえ、必然的に人間を超えた超知能が出現する

1点目の仮定に関しては、私も同意します。確かに、あらゆる能力、あらゆる観点において人間よりも知能が勝り、人間の知的な行為全てを人間よりもうまく遂行する超知能的な存在を考えることは可能ですし、実際にそのような超知能が存在することを阻む理由はなさそうです。

けれども、2点目の仮定に関してはやや注意が必要でしょう。

超知能は、勝手にどこかから出現するようなものではなく、人間が作り出す必要があるものです。そして、人間を越えた知能の存在が原理的には可能であるからといって、人間がそれを作り出せるとは限りません。生命体や核融合など、自然界に実例があり、理論上は可能でありながらも (まだ) 人間が完全に工学的に作り出せていない現象は多数存在します。また、たびたび例に出している超音速飛行機や宇宙旅行のように、技術的に可能であり実際に実証されながらも、経済的・リソース的な意味で困難なため広く普及していない技術も存在しています。

実際のところ、私は「人間が一番優れているから」人間を越える人工知能は存在しないと考えているわけではありません。私の考えはもう少し悲観的なもので、「人間は、汎用的な知能を作り出せるほどには知能が高くないから」、人間を越える汎用人工知能は作れないのだろう、と考えています*1

おそらくゴリラはハムスターよりも知能が高いですが、ハムスターよりも高いゴリラの知能ではハムスターレベルの知能を作り出すには十分ではありません。新しい汎用知能を作り出すためにはどれだけの知能の高さが必要なのかは不明であり、未解決の問題です。人間は人間よりも知能の高い存在を想像できるから、人間は超知能を作ることは可能だと信じられているようですが、現在までそれを証明する事実は存在しません。もしかすると、人間の知能は新しい知能を作り出すのに十分ではない可能性はあります。実際のところ、未だ超知能どころかハムスターレベルの汎用知能ですら実現されていないからです。

進化論的に言えば、私たちの知能は新しい知能を作ることを目的として発生したわけではありません。およそ100万年前のサバンナで、食料を発見し敵から逃れ、あるいは他の人と協力し敵対するために、進化を通して獲得されたものです。数学敵な能力や論理的思考力は、生物学的な時間からすれば極めてわずかな歴史しかなく、知能自体の解明や新しい知能を作る能力が人間に欠けているとしても何ら不思議ではありません。

実際には、人間が超知能を作り出す能力を持つと考えるほうが人間の知能を過大評価している可能性があると言えます。


もう1点、「非人間至上主義者」を自称する人は、生物の進化に対して誤った想定を持っているように見えます。生物進化を、梯子のような一直線の階梯のように捉えていることです。

この種の考え方では、生物の進化は一次元に進むもので、原始的な単細胞生物から人間に至るまでの直線の上にあらゆる生物が配置されるというモデルを想定しているように見えます。生命の進化は直線的に進むものであるため、現在は人間がトップに立っているものの、いずれは別の人工知能ないしは機械と融合したポストヒューマンが新たに先頭に立つのだ、と想定されているようです。

 

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けれども、進化論の観点からはこの主張は完全な誤りであると言えます。収穫加速の法則マインドアップローディングに関する記事でも度々取り上げていますが、生命の進化は進歩ではなく、ある環境内における生き残り (適応) のプロセスです。そこには一切の方向性もランク付けも存在しません。進化論的な観点から言えば、今日生存しているあらゆる生命は等しく「進化」しています。約30億年前、最初の生命が誕生した時から現在に至るまで、全ての生命は生殖の連鎖を途切れずに受け継ぎ、「進化」してきているからです。

生物種の自然進化をより適切に表す図は、以下のようなものです。この図は、テキサス大学のデイヴィッド・ヒルス教授によって考案されたもので、DNAの類縁性に基づいています。

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この図の中心部が原始の生命であり、外側に向かうに従って現在に近付いていき、最外周部が現存している生物種を表しています。ここには、いかなる階層性もランク付けも存在しません。あらゆる生物は、約30億年の間に等しく進化しています。この観点に立てば、人間が進化の先頭であるという考え方、人間よりも更に「進化」したポストヒューマンが出現するという考え方には意味がありません。

動物の知能も、この図と同じように、一直線の大小関係に乗せられるようなものではなく、多次元的な位置を持っていると言えます。たとえば、ある種のリスは数百個のドングリを埋めた場所を一冬の間記憶しておくことができ、人間をはるかに超えています。また、(ロドニー・ブルックス氏が論文のタイトルにした通り) 象はチェスをしないものの、高い知能を持っています。犬は人間には感知できないレベルの臭いを嗅ぎ分け、記憶することができ、渡り鳥の一種であるキョクアジサシは北極から南極まで、何のガイドもなく移動できます。

けれども、これらの動物が人間を超えているとか優れているという言い方は意味をなさないでしょう。人工知能の「知能」も、ある意味ではこれと同じです。人工知能の知能が高い、低い、人間よりも優れているという比較は意味をなさず、端的に方向性が異なるものです。

実際のところ、人間は何ら特別ではありません。ただし、直線的な一次元的な意味ではなく、複線的・二次元的な意味において。

 

 

動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか

動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか

*1:ただし、これは私の個人的な信念であり、実証的な根拠に基いたものではありません

知能は単一の尺度ではない

人工知能の「知能」に関する議論において最もよくある誤解は、人工知能の知能が「向上」ないし「拡大」し、「人間を越える」という考え方です。この種の誤解の裏にある前提は、「知能を測定する単一の尺度が存在する」という仮定であると言えます。

いや、人間の知能を測る知能指数 (IQ; Intelligence Quotient) が定義されているではないか、と思う人もいるかもしれません。けれども、そもそもIQの数値は知能の定義を回避した指数であると言えます。

人間の知能を測定する知能指数には、大きく2種類存在します。子供の知能の発達を、生活年齢 (実年齢) と精神年齢 (知的能力から換算される年齢) の比で表した従来のIQと、同一年齢集団内での偏差値に相当する偏差知能指数 (DIQ; Deviation IQ) です。これらの知能指数は年齢に対する発達の度合い、あるいは集団内における相対的な位置を測定するものであり、知能そのものを直接測定するものではありません。また、この2つはどちらも年齢や集団などが定義できない人工知能には、適用できない指数です。

また、IQテストをうまく処理できるコンピュータは、必ずしも普通の人がイメージするような意味で「知能が高い」とは言い難いことにも注意が必要です。たとえば、ある種のIQテストの項目には、数字の列を暗唱したり暗算をさせるテストがあります。人間の場合であれば、数字の暗唱や暗算は、多数の情報を一度に扱う能力や学習能力を測る目安となります。一方、数値の記憶や計算はコンピュータにとってはたやすいものですが、けれども、電卓に「知能がある」と思う人はいないでしょう。

人間の知能は、さまざまに異なる機能を果たすモジュールの寄せ集めであり、単一の尺度で測定できるような量ではありません。実際のところ、人間の知能は多次元量、つまり、それぞれ異なる多数の指標によって測定される量であると言えます。

 

知能を測定する単一の指標は存在しないため、「人間を越える人工知能」という言い方は意味のある表現ではありません。実際のところ、コンピュータはいくつかの点において既に人間を越えています。計算力においては、既に100年以上も前から人間はコンピュータに勝つことはできませんし、検索エンジンは人間よりもはるかに多数のウェブページや画像を「記憶」することができます。

これは、物理的な力についても同様のことが言えます。産業革命は200年以上前であり、あらゆる機械を合わせた集合は、人間の走る速度、物を持ち上げる腕力、物を切断する力などにおいて人間を負かすことができます。けれども、一人の人間ができる全てのタスクにおいて、人間を打ち負かす機械は存在しません。コンピュータの「知能」も同様です。

知能は単一の基準ではないため、コンピュータが持つ「知能」に関しての正しい捉え方は、人間とは異なるタイプの新たな「知能」、しかもそれぞれが様々に異なる種類の「知能」が多数生まれてくるというものでしょう。

 

さて、そうは言っても「あらゆる点において人間を越える人工知能」が存在し、更なる知能爆発を引き起こすことは想像できるではないか、という反論はありうると思いますので、次回以降のエントリでは、「知能爆発」について考えてみたいと思います。