シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

悪しき未来学: 「人生100年時代」の根拠の怪しさについて

このシンギュラリティ懐疑論を書いている中で、特にリアル知人から受けた典型的な反応は「ごく一部の馬鹿と利害関係者を除いて、誰もそんな話信じていないでしょ」というものでした。

確かに、シンギュラリタリアニズム/トランスヒューマニズム的な将来予想を額面通り受け止め信奉しているのは、ごく一部の周縁的集団に限られています。けれども、彼らの予想は、形を変え、希釈され、出自を隠されたまま主流派の未来予測にも入り込み、政治的な政策議論にも影響を及ぼしているため、決して完全に無視できるものではありません。更には、シンギュラリタリアン/トランスヒューマニストの「未来予測」に見られる論理的な誤りは、まったく同じ形で主流派の未来予測にも存在しているものです。

『ライフ・シフト』と人生100年時代

おそらく、最近「人生100年時代」というフレーズを耳にした経験のある人は多いのではないかと思います。

銀行や保険会社は「人生100年時代の老後に備える」ための投資や保険を売り込み、転職斡旋企業や自己啓発作家はキャリアの長期化に備えた人生設計の必要性を訴え、そして内閣府ではそのものズバリ「人生100年時代」を掲げた会議を開催しています。

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

このフレーズは、イギリス、ロンドンビジネススクールのリンダ・グラットン教授が、著書『ライフ・シフト』の中で提唱し、広く普及させたものです。

この本を読んでいない人は、「これほどまでに『人生100年時代』というフレーズが広がっているのだから、元ネタの本書では平均寿命予想の根拠がしっかり立証されているのだろう」と感じるかもしれません。

ところが、本書のほとんど (第2章以降) すべての記述は、「もしも仮に平均寿命が100歳を超えたとしたら、人生や社会はどのように変わるだろうか?」というスペキュレーションです。肝心の「将来の平均寿命の伸び」自体に対する科学的な根拠はかなり少量であり若干疑わしく、良く言っても仮説の域を出ないものであり、政策議論の根拠とするには不十分であると言えます。

平均寿命延長の根拠

本書の「平均寿命100歳」の根拠の本質は、「ベストプラクティス平均寿命」として描かれたグラフ(p.42)であり、「ある年に世界で最も長寿である国の平均寿命」を、過去およそ170年にわたってプロットしたグラフです。著者が主張するところによれば、1840年から2000年までの間、10年毎に2〜3年の寿命が伸びているため、これを線形に外挿すれば、近い将来に寿命は100歳に達するとされています。端的に言い換えると、「グラフを描いて直線を伸ばしてみました。」というレベルの議論です。

補足的に、「コーホート平均寿命」と「ピリオド平均寿命」による寿命予測の差異、現在研究中の長寿化手法や人間の寿命の上限などが挙げられていますが、著者の乱暴な外挿を正当化する根拠としては薄弱であるように感じます。また、これほどの寿命延長を実現するにあたって、具体的にどのような医療・公衆衛生政策や産業・研究政策が必要であるのかは議論されていません。

驚いたのは、著者自身が「もちろん、未来のことは誰にも分らない。」(p.49) という予防線を張っていることです。もちろん、著者が主張する通り「100年ライフがSFの世界の話でもなければ、乱暴なあてずっぽうでもな」(p.49) く、考察に値する仮説であることは間違いありません *1。そうは言っても、やはりこれは仮説であり、これをベースにした政策議論はかなり危なっかしいと感じます。

更なる極めつけの驚愕的事実は、(「人生100年」の直接的な論拠ではないとはいえ) 寿命延長の楽観論者の代表として、レイ・カーツワイル氏とテリー・グロスマン氏が挙げられていることでしょう。 カーツワイル氏の寿命「予測」については過去に取り上げたことがありますが、彼の医学と寿命に関する「予測」は完全なるデタラメであり、何度も何度も同じ失敗を繰り返し自身の経験からすら学べない愚者以下の、ほとんど狂乱の域に達しているとさえ言えます。

その上、カーツワイルとグロスマンは寿命延長効果をうたう健康食品ビジネスも手掛けており、科学的根拠の不透明さと高額な費用には批判的な意見も存在しています。

悪しき未来学

上記の通り、『ライフ・シフト』の根拠は弱いものですが、とはいえ、私自身もある程度の期間、寿命の伸びが続いてもおかしくないと考えていますし、今年誕生した世代の平均寿命が、結果的に100歳に到達する可能性はあるでしょう。また、本書で描かれた将来の変化自体は、寿命予想の成否に関わらず興味深いものです。

少なくとも、「人生100年時代」が検討に値する仮説であることは間違いありません。それでも、この「仮説」の扱われ方を見ると、これまでにも取り上げてきたシンギュラリティ論と同様の論理的な誤りが3つ存在しています。

まずは、「ある仮定のもとで起こりえる結果を空想しているうちに、短絡的に、仮定が現実だと信じ込んでしまう」という問題です。もともとの著者の議論、「もし平均寿命が100歳を超えたとしたら、人生や社会はどのように変わるだろうか?」というスペキュレーション自体は、妥当であり有用です。ところが、これが短絡的に受け止められると「平均寿命が100歳に達する」という議論の仮定が、確定的な未来のあり方であるかのように信じ込まされてしまうのです。

その結果として、「多様な未来の可能性とリスクを見落としてしまう」という問題が起こります。私も「平均寿命100歳」は検討に値する仮説であると思いますが、それと同じ程度には、「平均寿命の伸びが停滞ないし逆転する」という仮説も注意を払うべきではないかと考えています。

ここ数年連続して、アメリカでは「死亡率」が上昇しており、平均寿命の伸びをやや押し下げています。特に、中年白人男性の死亡率の上昇は著しく、彼らの切迫した絶望感が2016年にドナルド・トランプを大統領の座へと押し上げた可能性があると言われています*2。もちろん、死亡率上昇も、過去1世紀半の平均寿命の伸びと同じく「健康、栄養、医療、教育、テクノロジー、衛生、所得」(p.45) の複合的な要因によるものでしょう。けれども、この事実は「健康と長寿」への道のりが平坦ではなく、また寿命の伸びが歴史的必然でもないことを示しています。更に、トランプ旋風は「もし仮に寿命の伸びが停滞し逆転したとしたら、社会や政治行動にどのような影響を及ぼすのか」というスペキュレーションにも、同じ程度に考察の価値があることを示唆しています。未来のあり方が確定的なものであるかのように信じ込んだ場合、それ以外の状況へ対応する準備を削ぐことになりかねません。

これに関連して、「遠い将来の根拠の疑わしい話により、現在発生している問題が隠蔽されてしまう」という問題もあります。高齢化に伴う医療費の増大、医療従事者の恒常的な過重労働、新型の薬剤耐性菌の発生など、健康と寿命に影響を与えるであろう問題は、既に多数存在しています。

医学、生理学や薬学分野では、過去、一貫して投資効果の収穫逓減が発生しています。新薬1件の実用化に要する研究開発費用は、過去指数関数的に増大を続けてきました。長寿化の結果として発生する問題に眼を向ける以前に、そもそも長寿を実現するために何をするべきなのかに注目する必要があります。

実際問題、健康長寿は自動的・必然的に実現されることではなく、個々人の努力とともに国家と社会レベルでの対策・政策が必要になるものです。根拠の乏しい仮定を信じ込んでしまうと、「現実に何をすべきなのか」を見誤る懸念があります。


「多くの人はシンギュラリティなんてマトモに信じていない」ことは事実でしょう。それでも、彼らのナラティブは主流派の論者を捉えており、主流派の未来予測とも繋がっています。また、同時にその論理的誤りも一般的な未来予測へと持ち込まれているため、その影響力については真剣に受け止めるべきであると思います。

未来の出来事をこのように仮説として構築するにあたって生じる論理的な欠陥は、つねに同一である。それは、最初に仮説として登場するものが(…)二、三節先ではいきなり「事実」となり、さらにその事実から同じように一連の事実ではないものが生み出され、その結果、その企画全体の純然たる思弁的な性格が忘れ去られてしまうということである。
暴力について』(ハンナ・アーレント)