シンギュラリティ教徒への論駁の書

“Anyone who believes that exponential growth can go on forever in a finite world is either a madman or an economist.” - Kenneth Boulding

収穫加速の法則 vs.成果増大に関するプランクの原理

科学技術の指数関数的な成長を予測する「収穫加速の法則」を支える原理として、次のような主張がされています。

「一つの重要な発明は他の発明と結びつき、次の重要な発明の登場までの期間を短縮し、イノベーションの速度を加速する。」

 

なるほど確かに、直感的には、この原理はもっともらしく聞こえます。

19世紀に電気を研究した物理学者のマイケル・ファラデーは、ある政治家から「磁石を使って電気を流してみたところで、それがいったい何の役に立つのか」と問いかけられたとき、「あなたがたは必ず電気に税金をかける方法を見つけるでしょう」と答えた、というエピソードが伝えられています。

このエピソード自体の信憑性には疑問があるようですが*1、けれども、電気の発明が他の多数の発明と結びつき、イノベーションを加速したことは事実です。ファラデー自身も含め、19世紀の人間が将来の電気工学、電動モーターやテレビやインターネットの発達を全て見通せていたはずもなく、彼らには予想できない方向へと発明が組み合わされ加速していったと言えます。

また、ある技術の開発が他の技術の開発を容易にすることも確かです。たとえば、現代のマイクロプロセッサの回路はPCのCADソフトを用いて、つまり、既に作られたプロセッサの上で設計されています。初期のプロセッサは人手によって回路設計されていましたが、現在では、既に開発された成果を用いることで、更に高度なプロセッサの設計と実装が可能になっています。


けれども、その一方で、発見と発明がされるたびに、残された問題はより高度でより複雑になり、装置はより高価になり、進歩の速度が低下するという側面もあります。

量子力学に重要な貢献を残した物理学者のマックス・プランクは、科学の発展と共に研究上の困難が増すことを考察し、アメリカの哲学者・思想史家であるニコラス・レッシャーはこれを「成果増大に関するプランクの原理」と名付けています。科学において最初に解決されるのは簡単な問題であり、次第に未解決の問題領域はより高度で困難になります。そのため、解決のための資金・知的・人的リソースはますます巨大化します。

レッシャーは「科学が専門家した領域で進展するにつれて、ある水準の科学的知見を意義あるものとして認識するための資源コストは莫大なものになる」「科学の規模とコストにおける指数関数的成長が一定の進展を維持するためには不可欠なものになるのだ」(強調引用者)と述べています。

実例を挙げれば、19世紀に物理学者チャールズ・ウィルソンが発明した、荷電粒子を検出する装置である霧箱と、21世紀現在においてニュートリノ素粒子を検出する装置であるカミオカンデ加速器が挙げられます。霧箱を使った実験は、今では意欲のある中学生でさえ再現できるものですが、カミオカンデ加速器はとてつもなく高価で巨大な国家プロジェクトであり、その費用は到底個人や単独の研究所でまかなえるものではなく、設計、建築、運用と実験遂行には莫大な人数が関わっています。


そして、「収穫加速の法則」の原理と「成果増大に関するプランクの原理」を並べてみれば、論理的にはどちらももっともらしく聞こえます。この2つのどちらが正しいかは、論理のみではなく量的に実証的に確かめる必要があります。
私自身が19世紀から20世紀までの科学史を概観し、また近年の論文発表数などのデータを見た限りにおいて、21世紀の科学技術の発展は、停滞しているとまでは言うつもりはありませんが、必ずしも一様に指数関数的に進歩していると言えないのではないか、という感覚を持っています

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図:1982年-2010年の論文発表数。(文部科学省のウェブサイトより)

 

けれども、正直に言えば、人類の科学史全体に渡る発見・発明の質的・量的な意義を比較する方法を、私は持ち合わせていません。

私が間違っている可能性もありますから、シンギュラリタリアンのみなさまからのデータに基いた反論をお待ちしています。

参考文献

趣味や興行としての将棋や囲碁はAIがあっても残る

今年5月、世界最強と言われる囲碁棋士・柯潔氏と、Google傘下のDeepMindが開発する人工知能(AI)「AlphaGo」による対局で、AlphaGoが柯潔氏に対して3連勝を収めて注目を集めました。

 

また、日本でもプロの将棋棋士とAIの対戦が2012年から開催されていますが、近年ではAIが圧倒的な戦績を残しています。

 

これを受けて、インターネット上では、「囲碁や将棋では既にシンギュラリティを超えた」などという評価もされています。確かに、ほとんどのボードゲームにおいては、人間は (ある程度学習した) AIに勝つことはできないだろうと私も考えています。

それでは、将棋や囲碁はもはや解析し尽くされ、数年後にはもはや誰も省みる人も居なくなるような、終わったゲームとなってしまうのでしょうか。

 

ここで、ボードゲームの将来を考える上で参考になるゲームがあります。既に20年前に、人間のチャンピオンがAIに破れた、チェスです。

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収穫加速の幻影 補遺

これまでも度々取り上げた、カーツワイル氏が宇宙、生命と人類史の指数関数的成長を例証したと主張するアイコニックなこのグラフですが、このグラフに対する批判もまとめておきます。

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  • そもそも、「生命」、「人類史」と「テクノロジー」を時間という単一の指標で比較することに、何か意味があるのか。
  • 何がパラダイムなのか定義されておらず、恣意的に選択されている。
    たとえば、「絵画、初期の都市」をまとめて1つの点として扱っており、逆に冶金、製紙法や量子コンピュータなど、重要な発明が含まれていない。
  • 過去に遡るほど情報が得られにくくなり、現在に近いほど情報量が増えるため、近年の出来事ほど多く選択されやすくなる傾向が存在するのではないか (サンプリングバイアス) 。
  • 生命進化の現象は、グラフ上の1点として提示できるほどに分離していない、断続的に継続されるプロセスであると考えられる。
  • 横軸は、なぜ「現在までの時間」なのか。「法則」であるならば時間の基準の設定に依存せず成立するべきである。300年前に基準を置けば、産業革命こそが特異点であると言え、100年後であればやはりその時点での「現在」が特異点であると言えるだろう。
  • 縦軸は、なぜ「次の事象までの時間」なのか。そもそもが指数関数的な傾向を持つ事象の系列の差が指数関数的になることは当然ではないか。

 

なお、ここで取り上げた論点は私だけが指摘しているものではなく、WIRED誌の創刊編集者ケヴィン・ケリー氏、分子生物学者であり著名ブロガーのPZマイヤーズ氏、日本では産総研機械学習研究者の一杉裕志氏などが同様の指摘を加えています。(上記の論点は私自身が考察したものですが、注意深く見ればおそらく誰でも気付くことだろうと思います。)

収穫加速の幻影

カーツワイル氏は、コンピュータや機械学習などのみの単独のテクノロジーだけが指数関数的に成長すると主張しているわけではありません。そうではなく、「収穫加速の法則」に従い、「パラダイム・シフト」が発生するまでの間隔が指数関数的に短縮されており、科学技術全体の進歩が加速しているのだと主張しています。

けれども、これまでの議論において、カーツワイル氏が主張する「収穫加速の法則」を検証してきましたが、必ずしもこの法則を正当化する根拠を見つけることはできませんでした。第四章のまとめとして、「収穫加速の法則」に対する私の批判を再度掲載します。 

  1. 「収穫加速の法則」自体の定義があいまい
    この「法則」は複数の意味で使われており、厳密に何の量が指数関数的に成長するのか不明です。また、意図的にか無意識的にか「ムーアの法則」と「収穫加速の法則」を混同した主張も見られます。
  2. パラダイム」の定義が恣意的である
    宇宙、人類史とテクノロジーの加速を示したとするグラフにおいて「パラダイム」の定義は明確ではなく、「指数関数的な成長」を示すために恣意的にパラダイムを選択していると考えられます。これにはカーツワイル氏からの再反論もありますが、別の未来学者からの更なる再批判も存在しています。
  3. 実証的に人類文明全体の指数関数的な成長が観察できない
    パラダイム」という主観的な基準ではなく、1人当たりエネルギー消費量、1人当たりGDP推定値*1特許申請数や論文出版数*2など、「人類の進歩の総量」を間接的に推定できる客観的かつ定量的に定義可能な指標を用いた場合、必ずしも人類文明全体が一様に指数関数的に進歩しているとは言えません。特に直近数十年においては、減速、停滞ないしは没落しているというデータも存在します。

以上の3点の理由から、「収穫加速の法則」は「法則」と呼ぶに値しません。明確に定義された「ムーアの法則」とは異なり、「収穫加速の法則」は、たまたま指数関数のパターンを描けるに過ぎず、人類が進む方向については何も指し示していないものです。

そして、おそらく、カーツワイル氏自身も私の意見に同意するでしょう。前回も述べた通り、カーツワイル氏のシンギュラリティ予測の根拠は、「ムーアの法則によるコンピュータの性能向上」と、「脳のスキャンとリバースエンジニアリングを通した脳エミュレーションによる汎用人工知能の実現」であり、人類文明全般に渡る指数関数的成長は、直接の根拠ではないからです。

よって、将来のエントリでは「ムーアの法則」と「脳のリバースエンジニアリング」の2点に関して検証していきます。

関連項目

ムーアの法則は収穫加速の法則ではない

先日、あるシンギュラリタリアンの方とネット上で議論をする機会があったのですが、議論を通して彼らが何を考え、どのような内的な論理で「収穫加速の法則」を捉えているのかを理解できたように感じています。

そして、なぜ、これまでの私の議論がシンギュラリタリアンから完全に誤解されてしまったのかについても同様に理解したため、私が理解した「シンギュラリティの内的論理」をここで説明してみたいと考えてみます。

 

さて、カーツワイル氏が主張する「収穫加速の法則」のグラフですが、一見しただけでもツッコミ所があるこのグラフを、なぜ将来予測の根拠とみなしているのか、私は釈然としませんでした。

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また、それとは別に、彼らが「ムーアの法則」を取り上げる際に、物理的、経済的、社会的なあらゆる制約を無視して、半永久的にコンピュータの性能の指数関数的成長が継続されると主張するのかも、よく理解できませんでした。常識的には、テクノロジーの成長が無限大の速度に達するはずはなく、どこかで停滞を迎えるはずであるからです。


けれども、彼らの思考の中では、この2つの法則が「指数関数」というキーワードを通して渾然一体となり、「宇宙の進歩は指数関数である」という「法則」(?)として捉えられているのだ、ということに気付きました。
実際のところ、この2つの法則は完全に別のことを述べているものですが、彼らの内的な論理では「同一事象の異なる側面を捉えている」と考えられているのです。

つまり、ムーアの法則は、あくまでも指数関数的な成長の具体的な一事例に過ぎませんが、宇宙の開闢から現在にまで至る壮大な指数関数的成長が続く中にムーアの法則が位置付けられており、今後も永続すると考えられているのです。

これを踏まえると、私の批判が理解されなかった理由が判明します。


「収穫加速の法則」がさまざまな意味で使われていると批判しましたが、実はこの多義性と意味の融合こそが「法則」の本質です。

特異点へのカウントダウン」のグラフが示す「収穫加速の法則」において、『「パラダイム」の定義がなく何も予測しておらず、反証不可能であるどころか反証に足る予測を示していない』、という批判に対しては、「ムーアの法則」の明確な定義と予測と反証可能性こそが、その反論となります (と、彼らは考えているようです)。

逆に、『「ムーアの法則」が半永久的に継続されるはずがない』という常識的な判断力による批判は、「収穫加速の法則」によって示された宇宙開闢から続く指数関数的成長こそが、その反論です (と、彼らは考えているようです)。

 

けれども、改めて言うまでもないことですが、仮に「収穫加速の法則」の正しさを認めるとしても、この法則は「パラダイム・シフト」の加速を述べるものであり、一方で「ムーアの法則」は、集積回路の微細化とトランジスタ数の増加を述べるものです。

2つの法則は論理的には完全に意味が異なるものであり、同一視して未来予測を述べることは誤りです。


このエントリで述べたことは、単に一人のシンギュラリタリアンとの議論から私が感じた印象に過ぎず、一般化して述べるつもりはありません。

そして、『ポスト・ヒューマン誕生』におけるカーツワイル氏の議論を注意深く追ってみると、将来予測において「パラダイム・シフト」の意味での「収穫加速の法則」は、直接的に使用されていないことが分かります。


あくまでも、カーツワイル氏による予測の根拠は次の2点です。すなわち、「しばらくの間はムーアの法則が続き、脳をエミュレーションするために十分な計算能力が得られる」、「脳のスキャン技術の発展により、脳エミュレーションに必要となる知見が得られる」という想定です。この2点から、脳エミュレーションによる汎用人工知能の実現と、AIの知能の指数関数的な加速を予測しています。


そこで、将来のエントリでは、カーツワイル氏がシンギュラリティ到来を予測する直接的な根拠である、この2件の主張を検証していきます。

未来学者モディス氏による収穫加速の法則への批判

カーツワイル氏が宇宙、生命、人類史とテクノロジーに渡る指数関数的な成長を示した「収穫加速の法則」のグラフについて、事象の発生間隔が指数関数的に短縮されるという結論を示すため、「パラダイム」が恣意的に選択されている、という批判を既に述べました。

 

けれども、「パラダイム」が恣意的であるという批判に対してカーツワイル氏は再反論しています。15個の独立した情報源を用いて同様のグラフを描いても、やはり同じように指数関数的な「パラダイム」間の時間間隔の短縮が見られるというものです。

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この再反論に対して、「パラダイム」が定義されていないという問題は解決されておらず、このグラフから有意味かつ反証可能な将来予測を引き出すことはできないため、批判に対する有効な回答とはなっていないことを既に述べました。

 

更に、このグラフに対して根本的な批判を加えている人が存在します。医師であり未来学者で、カーツワイル氏に対する有力な批判者であるセオドア・モディス氏です。

以下に、モディス氏の議論を翻訳して紹介します。

[訳注: 『ポスト・ヒューマン誕生』] 第一章におけるグラフのあらゆるデータは、カーツワイル氏によるこのテーマのイントロダクションとして重要な役割を果たしているが、私の2つの記事から取られたものである[1, 2]。宇宙の発展におけるマイルストーンを構成する14個のデータセットは、私が調査したものだ。私は、独立した情報源からデータを得ようと努力したけれども、成功しているとは言い難い。
2つのデータセットが独立したものではないことは、記事中に明記されている。一つのデータセットにおいては正確な値が得られなかったため、私自身がデータを挿入した。その他のデータセットは私の推測にもとづいている。どちらのデータセットも、他の12個のデータセットから受けた影響によって強いバイアスが存在している。更には、いくつかのデータの情報源は端的に根拠として弱いものである。(たとえば、生物学の教授によって講義の課題としてインターネット上に投稿された記事であり、現在では既に削除されている。)

 

実際のところ、全ての範囲 (ビッグバンからインターネットまで) の期間をカバーしているのは、ただ一つのデータセット (カール・セーガンの宇宙カレンダー) のみである。その次の完全なセット (ノーベル賞受賞者のポール・ボイヤーによるもの) は、年の値が示されていない。それ以外の全てのデータセットは、さまざまな基準によって集められた、全ての期間のうちの一部に限られた範囲を占めるのみのデータであり、さまざまな手法によって得られたものである。その結果、それぞれの専門家が注目する基準により、マイルストーンの重要性に対して不規則な重み付けがなされていいる。

 

真剣な科学者であるならば、自身の中心的な主張を支持するデータの質を二重チェックし、含まれる不確実性を推定しなければならない。カーツワイル氏はそのどちらも怠っている。それどころか、カーツワイル氏は私の記事から更にデータ (以前の13個のデータの平均値) を加えて、15個の独立した情報源からの証拠が存在すると吹聴しているのだ!*1

 

[1] T. Modis, Forecasting the Growth of Complexity and Change, Technological Forecasting and Social Change, 69.4 (2002) 377-404

[2] T. Modis, The Limits of Complexity and Change, The Futurist, (May-June 2003) 26-32.

 

つまり、このグラフはカーツワイル氏が主張するほど「独立」した情報源から取られたものではなく、データの網羅性・信頼性も低いものであるということです。

*1:Theodore Modis(2006) "The Singularity Myth"

帰納的推論:(これまで)無限は存在しなかった

私たちが住む、現実の、この世界において、「無限大」は (これまで) どこにも存在しませんでした。(今までのところ) 無限は、ただ人間の頭の中、観念の中にだけ存在します。

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図: y=1/xのグラフ

 

「シンギュラリティ」の本来の意味を説明するために、シンギュラリタリアンがよく取り上げている反比例関数 y=1/x のグラフがあります。「ある数をゼロで割ると無限大=特異点が生じる」ということを示すものです。

けれども、「ゼロで割る」とは一体何を意味するのでしょう。

たとえば、ケーキを0人で分けたとして、ケーキが無限の大きさになるでしょうか。ゼロでの除算は、現実にどのような操作をするか定義できないだけであり、この世界にいきなり無限大が生じるわけではありません*1

物理学において、計算結果に無限大が現れる場合、それは理論の不備を示していると考えられています。一般相対性理論において、ブラックホールの質量が無限大に発散してしまうのは、おそらく量子効果を無視しているからです。量子力学一般相対性理論の統一理論が完成すれば、ブラックホールの質量が無限大に発散する問題は解決されると期待されています。

 

さて、シンギュラリティにはさまざまな定義がありますが、そのうちの一つに「テクノロジーの成長速度が (主観的に) 無限大になること*2」という定義があります。

けれども、私にとっては、無限大の速度でのテクノロジー成長が発生しないことは自明に感じられます。

なぜならば、これまで無限の速度で成長したテクノロジーは存在せずほとんどのテクノロジーは物理的限界のはるか手前で成長が停滞したからです*3

 

けれども、反論としてシンギュラリタリアンはこう述べています。「これまで、情報テクノロジーはムーアの法則に従って指数関数的に成長してきた。だから、成長が永続し速度が無限大に達する。」

 

この2つの両立しない主張を並べて比較してみると、実際のところ、私の懐疑的な主張とシンギュラリタリアンの肯定的主張は、どちらも同一の論理的な構造を持っていると言えます。つまり、どちらの主張も過去の (有限個の) 観察を元にして、未来を予測するものであるからです。

懐疑論者は、過去のムーアの法則の成長曲線を永遠に延長することはできないと主張し、一方で、シンギュラリタリアンは、過去のテクノロジーの成長を元に情報テクノロジーの成長を予測することはできない、と反論することができます。

どちらの側も、「過去そうであったから」ということを根拠に「これからもそうである」と主張するものです。

つまり、どちらの予測も論理的に正しく、同様に論理的な飛躍を含む、帰納的な推論であるということです。シンギュラリティ肯定派だろうと懐疑派であろうと同様です。

 

そしてこれは、何もシンギュラリティ論に限った話ではありません。一般に、科学法則はあらゆるものに適用できるという性質がありますが、人間が観察できるのはただ有限の事例のみです。

一体なぜ有限個の事象の観察から、あらゆる事象に適用される一般的な科学法則を述べることが正当化できるのでしょうか。そして、科学法則とはいかなる性質を持ち、科学と非科学を分かつ境界線は何なのでしょうか。

将来のエントリで、カーツワイル氏のシンギュラリティ論から少し寄り道をして、「科学法則とは何か」、「帰納的推論はいかに正当化されるか」を議論したいと考えています。

 

 

*1:ただし、これはカーツワイル氏も認めている通りです。 『ポスト・ヒューマン誕生』p.36

*2:齋藤和紀(2017) 『シンギュラリティ・ビジネス』p.30

*3:なお、シンギュラリティの定義を「『主観的に』テクノロジーの成長が無限に感じられる点」としても同様です。主観的だろうと客観的だろうと、無限の速度での成長は過去に存在していません。